斉の王太子――秦への出立前の決闘

「姫傑が趙の王であるなら、秦に立ち向かえたんだ」


 雑多な中で、姫傑は拳を震わせていた。


 姫傑が王であるなら。

 ――言われちまったな……。


 すぐにでも、王になれる方法はある。


 王を殺すのだ。いいや、太后母を含め、父の一派すべてを蹴散らし、更に愛妾に生ませた同期の太子資格を持つ男をすべて殺し、後ろ盾の一派を殲滅し、皇宮を消せば……考えていて気が遠くなった。


 梁諱の言うとおり。趙の大軍百二十万を動かせれば、斉と趙の連合軍は秦を超える。更に楚も公子后の輿入れにより、楚と趙は友好関係を保っていた。


 外交に長けた項賴が死んだのは、いかにも惜しかった。

 肩を叩かれ、顔を上げると、梁諱の笑顔があった。


「戻ろう。褒姫のご機嫌を直して貰わねば、夕食も出て来ない。褒姫との一杯が楽しみなんだからな」


 察したのか、斉梁諱は二度と、姫傑への不満は口にしなかった。

 梁諱の気遣いの態度は、いつもは明るい姫傑を知らず落胆させていた。



 因みに、その日の夕食は無事に並んだ。いつもより皿数が多いことに、斉梁諱は安堵していた。背中を向けた褒姫の髪は綺麗に束ねられ、二つの釵に彩られている。


 どうやら、そっちはうまく行ったようだ。


 二人は食後の一杯を交わし、雑談と談笑を始める。

 散々嫌がらせのつもりで、二人の仲睦まじさを見守った。

 褒姫は部屋に戻り、梁諱は今日の報告文を彫ると、部屋に引き上げて行った。

 新婚の家に一人など面白くもない。勝負はできなそうだと姫傑は夜、そっと離宮を出た。


                  *


 釵は白馬をとても美しく見せている。夜、そっと愛憐を引き、海岸を歩いた。こっそり密かに買った櫛を割れないように懐に詰め込む。妹姫・西蘭に似合いそうな金色だ。

 夜の海は穏やかで優しい。砂浜に腰を下ろすと、二匹の蟹が絡まり合いながら眼の前を横切ってゆく。今頃は梁諱と褒姫も絡まり合っているのか。


〝姫傑が王であるなら〟


(俺だって、なりたいさ! だが、趙は巨大過ぎて、お鉢なんか回って来やしねーんだよ)


 砂を掴んで、海に投げる。気がつけば愛憐も足を折り曲げ、座り込んでいた。

 ただ、靜かに夜の海が波を寄せては返す音が響いている。


 難しい問題を考えるのは苦手だ。じっとしていては駄目になる。足が固まって、前が見えなくなる。がむしゃらでも動く意識が大切だ。だから、秦の天武は正しい。


 だが、行動を起こしても、結果の見えない俺は、どうしたらいい……?


 見ると、心配そうに愛憐が見つめている。


「愛憐、趙に戻ろうぜ。戻って西蘭巻き込んで、ウサばらしに乱痴気騒ぎでも」

「姫傑、もう行くのか」


 ふと、声がして、砂浜を踏み締める重い足音が響いた。月に照らされ、鎧姿の梁諱が立っていた。


「おまえ、その格好……」

「褒姫には言えなかった。王の命令で、実は今から秦への出立でね。長城を拡張する計画がある。わたしの力を借りたいと。その前に約束を果たしに来た」


 秦への出立? 長城の拡張? 莫迦な脳でも、何を指しているか分かる。


「褒姫ンとこにいろよ!……聞いてんのかよ!」


 月夜の下で、梁諱は剣を抜いて構えた。


「君は棍を使え。止めて見せよう」


 梁諱の剣は二本。双剣。王族を示す赤い房に、更に赤い布が巻いてある。

 同心結だ。結婚の儀式では、武将の腕に、妻が赤い布を巻き、己の腕と繋ぐ。永遠の愛を誓うために行う儀式。梁諱はその時の布を剣に巻き付け、常勝を誓っていたのだ。

 ――必ず、生きて妻の元に帰ると。 


(何が秦への出立だ! 騙されてんだよ!)


 なぜ、王が出向かない? どうして、これからの梁諱を死に向かわせるっ!


 憤る姫傑の前で、斉梁諱は無情にも剣を抜き、突きつけて嘲笑った。


「わたしとの勝負に来たのだったな? だが、将軍相手に容赦して貰えると思うな? この斉梁諱、妻以外には甘くない」


 だいぶ馴染んできた棍を握り締めて、梁諱を涙目で睨んだ。

 脳裏に嬉しそうに釵をつけ、傍に寄り添った褒姫が浮かぶ。

 秦のことなんか! 国のことなんか! 燃えた人民なんか、放置すりゃいい!

 怒りが、ずしんと腹に響いた。 


「うおおおおおおおおお!」


 振り回して斉梁諱の右肩を狙う。だが、俊敏に躱され、棍を握り直したところで蹴りが来た。


「うあぁっ……っ!」


 腹の中を全部ぶちまけそうな熱さが丹田を襲う! 足篭手をつけた上、梁諱は山脈越えに備え、重しのある鎧を着けている、内臓をぶちまけてもおかしくない足で蹴ったのだ。


「冷血漢! 褒姫はどうすんだ! 梁諱! ああ、てめえを相手した女が言ってた。てめえはかなり強引で、自分勝手なやり方するってな! おまえ、遊女を始末させたな」


 梁諱の端正な眉が上がった。


「あれは不可抗力だ。その件に関しては、君も同罪だ。太子でありながら、あの遊女は金を巻き上げた。国家犯罪者の烙印を捺され、流罪になった。もう仕舞いか」


 蹌踉けたところを、双剣が狙う。砂浜に倒れ込み、交差した剣で首を挟まれ、動けなくなった。梁諱の抑揚の少ない美声が響く。


「勝負あったな。瞬殺か。その武器は、捨てるべきだ」


「お綺麗な戦いしやがって! 武器だけで武術が成り立つと思ってんのか!」


 姫傑の長い足が、砂を蹴飛ばし、梁諱の眼を襲った。う、と両眼を押さえた隙に、棍で一本の剣を倒し、這い出て、体勢を整えた。

 ズキンと腹が痛んだが、何とか立ち上がると、梁諱の投げた二本の剣を両手にして、ぽいと捨てた。


「敵が生きてる内に、武器を手放すなって教わらなかったのか! 痛かったぞ、この野郎!」


 揉み合って、砂で滅茶苦茶になる。梁諱が倒れ、馬乗りになった姫傑は梢子棍を両手で握り、鎖を梁諱の首に当てていた。


 砂浜に姫傑の首から流れた血が染み込む。



「掠っていたか」

「人の首をあんな物騒な剣でハサんでおいて、よく言うぜっ。まあ、でも、こいつの使い方は分かった」


「それは良かった」


 砂を丁寧に払いながら、斉梁諱は呟いた。


「おまえが離宮にいるのは構わない。褒姫を寂しがらせずに済む」

「俺を種馬って言っただろ。合ってるよ。やめとけ。その冗談笑えねえよ」


 斉梁諱はゆっくりと微笑み、告げた。


「おまえは褒姫が好きだろう?」


 これには無言になるしかない。姫傑は黙って梁諱の言葉を待った。



「褒姫が言っていた。おまえは信用できると。だから酒を飲んだのだと。昼間の話は忘れてくれていい」


 姫傑の勝ち気な瞳に、僅かに滴が浮かぶ。秦の天武は、国の威厳の次に、大好きな親友をも奪うつもりか。力がないのが、悔しかった。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る