斉の王太子――斉の花街・鳳凰鎮斉陵街道の焚書

「褒姫は怒らせると、後が長い」


斉の花街・鳳凰鎮斉陵街道ほうおうちんせいりょうかいどう。秦の猛攻撃の後、妓女・遊女が行き交う遊行の街だけは、今なお斉の唯一の主導権を保持していた。

支配政権を引き継いだ秦の王は、色街に興味がない。隣街の貿易都市や、海岸の東方貿易用の船はすべて秦への献上物になっているにもかかわらず、手をつけていない。

従って唯一の「斉の文化」と言える。


妓女たちは仕事上がり、行き交う大半は女郎の元に向かい、就寝となる。

 栄えるのは、帰宅途中の妓女たちのために開かれる市。釵や帯、帯紐、朱唇香料、怪しい同衾用の媚薬、強壮剤までもがずらりと並ぶ。

 梁諱はひとつの店の軒下に足を止めた。妻へのご機嫌伺いのための買い物をする様子に、 にやにやしながら姫傑も並んだ。


「これで機嫌を直して貰えると思うのだが」と見れば手に釵が二つ。そういえば、朝方に辿り着いた時、褒姫は釵を手に飛び出してきた。


「褒姫は何より釵が好きでね。かつて、わたしが贈呈してから、褒姫は必ずつけてくれる。それが愛の証だそうだよ。照れるな」


(何か、聞いてて莫迦らしくなってきたぜ)


 姫傑は一つの赤い釵を手にした。庚申薔薇を象ったものらしく、派手で白い肌に似合いそうだ。見ていた梁諱が顰め面になった。


「品がなさ過ぎる。斉の太子の妻だ。楚々としたものを選んでくれ」


「あ、愛憐にだ。何で俺が、おまえの妻の簪を選ぶ。夜伽用の薄衣なら、喜んで選んでやるけどな」


「褒姫の薄衣? 知らないな」


 耳を疑った。婚姻間近の男女は、薄衣を交換し、それぞれ持つ風習がある。


「知らないって褒姫と同衾してんだろ」

「何と品のない。それで趙の大国たる太子か」


 梁諱は先ほどから、桃色か、黄色かで悩んでいる。一つを残しては、片方を取り、冷酷将軍の欠片もない優柔不断ぶりを発揮していた。眼を三日月にした男が、敵となれば、顔色も変えずに殺し、奈落に落とす。斉の将軍の梁諱と言えば、北央の月氏まで震え上がらせる敏腕の持ち主だとは信じられん。


「数々の女を相手にしたものだが。愛おしいという感情は違うのだな。今夜こそと思いつつ、抱き締めて眠ってしまう。とてもではないが、欲望を注ぎ込む気にはなれぬのだよ」


 黄色に決めたらしい。櫛の容ではなく、釵と呼ばれる留め金が二本ついたものだ。


「普通は櫛だろ」


 梁諱は靜かに首を振った。


「褒姫は皇族の娘ではないのでね。木製の釵をしていたくらいだ」


 通常、太子は皇族の娘を宛がわれる。ああ、それで離宮なのかと、姫傑は納得した。


「後宮入りをさせりゃいいんだ」


 梁諱はまた首を振り、姫傑の手の釵も合わせて、代金を支払った。


「褒姫以外を愛する気はない。まだ機会は訪れてはいないが」


(では、俺にも機会はあるわけだ)


 姫傑は軽く唇を舐め、いやいや、と否定した。

 昼間の花街をぶらぶらと歩いて、腹が空く頃には、梁諱の手には三つの包みがあった。

 眼の前をばたばたと兵が走って通り過ぎた。漆の鎧に、流し込んだ青銅の楯。秦兵だ。


 姫傑は、苛々しながら、梁諱に口元を寄せた。



「みろ、梁諱。秦兵がいやがる」



「めぼしい商人を捕まえて国交を迫るのだ。ああ、趙も遊牧民族の商人を抱えていたな」

「文化の強奪かよ」


 また、秦の兵が通り過ぎた。尋常の数ではない。ふと見れば、黒い煙がぶすぶすと上がっている。街の民も足を止め、同じ方向を見つめていた。


 火の手が上がっている状況が分かる。

二人は顔を見合わせ、頷いて兵を追った。

 街道の街の一角が燃えていた。傍には松明を持った兵が二人。引きずり出された男が抵抗したためか、呆気なく刺され、息絶えている。


「何事か! 斉の人民の暮らしは保証せよと、秦の王に伝えよ!」


 泣き喚く声と、燃える火に、梁諱が耐えきれずに叫んだ。すぐに道が開く。堂々と通って、梁諱は更に兵を睨め付けた。


 兵は顔を見合わせケケケと笑った。恐らく犯罪者崩れだ。

 むかっ腹が立つ下卑た笑いだ。足に隠し持った棍を、勢いよく引き抜いた。


「梁諱。説教なら後で聞いてやらあっ!」

「あ! 姫傑!」


 止めるのもきかず、棍を手に飛び込んだ。


 高速で回る武器に、兵が楯を構えた。だが、鉄の棍は楯をも砕き、相手の松明と、腕の骨を粉砕した。続いて足。自分の脛に当たって飛び上がりはしたが、渾身の力で振り下ろそうと。


 梁諱が腕を片手で止めてきた。手の止まった姫傑に靜かに首を振って見せる。


「秦の兵よ。わたしは太子、斉梁諱。そなたとの王との協定で、斉を一部献上し、我が妹の輿入れを以て、ことなきを得ている。狼藉の説明をして貰おう。でないと、そなたの首だけが秦に行くぞ」


「秦からの焚書命です」


 焚書だと? つまりは、すべての書物を燃やせとの命令を秦の王が下したのだ。


「思想の制限は止めよと申し伝えよ! 必要あらば、このわたしが出向くと。伝えるか、伝えないか。伝えぬなら、ここで終わる。この斉梁諱、妻以外には甘くない」


 聞いていて気の抜ける脅しでも、兵には効いたようで、秦の兵は、こそ泥の如くに逃げ帰った。



「消火を始めよう。大丈夫だ。余力のあるものは、水を」


 数人が樽を持ち、洛水に向かってゆく。


「酷いな姫傑。この男は書物を売っていた。生計の目処も立たないだろう。これが秦のやり方か」


梁諱が唇を噛み締める。


「人民に向ける顔がない。国を護るといいつつ、これだ」


 趙を思い出し、姫傑はごん、と棍を振り回して、怒りを眼に滾らせた。


「何で言われるまま、従ってんだ! おまえのやる行為は、逃げ腰じゃねえか!」


 風が吹くと同時に、心弱い声が姫傑に響いた。


「そうだな。逃げ腰だ。だが、姫傑」


 諦めに似た口調で、聞こえぬよう呟いたつもりだったのだろう。

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