斉の王太子――動と静の交差

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 陽が高くなりつつある。陽光に照らされた海が一層輝きを強くする頃。

突然ふわっと花が咲いたかの如く、褒姫の頬が負けじと明るく輝き、無邪気に縁に手を掛け、褒姫は身を乗り出させた。


「梁諱! お帰りなさい!」


階段下にぞろぞろ集まった男は誰も彼もが満身創痍といった風情。


「褒姫。遅くなって済まない。先に父に挨拶を済ませてきた」


 梁諱はすっきりとした顔立ちをしているが、一見すると、女性と見まごうような美しさがあった。斉梁諱の声音は湖の静けさを思わせる。野性味に溢れている姫傑とは少し違う魅力だ。


 将軍の地位を示す甲冑に填められた紅の象嵌に、遊牧民族衣装の姫傑に比べると、正統派王族の皇極衣装の薄衣。斉の原産の鉱石を下げた胸元。


 衣服は乱れてはいるが、品は損なわれてはいない。愛おしい妻が駆け寄るのを心の底から嬉しそうに見つめる瞳は、薄く碧懸かった黒檀だ。


――俺など、お構いなし。いつもの話ながら腹立つな。


 衆人環視の眼など気にもせず、軽く唇を重ね合いながら、梁諱は甲冑を外しに懸かった。頑丈な鎧は、羊の皮を幾重にも縫い込み、銅を混ぜ込んだ高級品だ。

 斉の太子、梁諱・褒姫の仲睦まじさは、衆の知るところ。離宮を与えられた太子はまだ式は済ませてはいないが、いわゆる新婚だ。

花街で梁諱が褒姫を見初めて以来、片時も離れていたくないらしく、どちらかというと、梁諱が褒姫を構う。

 一頻り再会(と言っても恐らく離れていたのは一日程度の愚かな話だろうが)の喜びを交換し、褒姫は梁諱の肩紐を銜えて解き、保護用に巻いていた包帯を指で解く。

包帯の間から、小さな香菜が出てきた。ふわりと独特の香りが鼻を擽る。


「今日も、貴女が護ってくれたようだな」


解いた布を褒姫に手渡しながら、梁諱は今なお外で様子を窺っている兵たちに視線を向けた。


「褒姫、私よりも、兵を労って欲しい。皆、遠征で疲れているのだ。確か、まだ羊の肉が残っていたろう。祝い酒と一緒に振る舞ってやれ。英気を養えるだろう。此度の遠征は、我が斉の勝利だ」


 褒姫は嬉しさを溢れさせ、破顔し、夫に頭を下げた。


「かしこまりました。客人がおりましてよ、あなた」

「誰だ? 褒姫!」


 危機を察した梁諱の眼が愛妻家の夫から、冷酷無比な将軍に変わる。

 いい加減こっちに気づけと、姫傑は椀を投げた。褒姫を腕に庇い、凪の如く靜かに避けた梁諱は褒姫を解放して、姫傑の姿を認めると、恥ずかしそうに、軽く微笑んだ。

眼を輝かせ、真っ直ぐの髪をゆっくりと揺らした。


「久しぶりだな。姫傑。いたのに、気付かなかったよ」

「ふん、腕は鈍ってねえな。新婚で腑抜けになったかと心配していた」


 かつて戦った瞳同士が、かち合う。しかし、奪ったのは領土ではなく、斉と趙の間に位置する遊行の街の高級遊女だ。散々通い詰めたが、結局、どちらも相手にされず、太子同士の浪費について、互いに詰問され、浴びるほどの酒に二日酔いで盛大に終わった。


 飛ばした椀を拾い上げながら、梁諱は続けた。


「まさか。わたしが腑抜けたら、誰が斉を護る。まだ海匈奴はいないが、近日中に現れる。奴らが現れる前には、海月がたくさん流れ着くからな」


 そういう意味じゃねえよ。真面目野郎。

 斉梁諱は見目がいいだけでなく、無自覚の色男だ。いつか、どんな口説きで遊女と愉しんでいたかを、褒姫に是非暴露してやりたい。


「海月? 食えるのだったか」

「死に急ぎたいなら、どうぞ。褒姫、旧知の莫迦太子さまに、海月をご馳走しておやり」

「はい、早速、ウフフ」


 艶やかに褒姫は微笑みを口元に浮かべ、礼をして下がっていった。その後で、駆けつけ一杯とばかりに水を飲み下して、梁諱は姫傑を軽く睨む。


「蝙蝠が夜明けに騒いでいた。さては、君か。まさか、山脈夜越え? 呆れた。無謀にも程がある。武器を見せて」


 足に括り付けた棍を手に取って渡すと、梁諱は興味深そうに、棍を両手で捧げ、見入った。


「棍か。大柄な君には、長剣のほうが合っていると思うが。棍は接近戦でも、隙が大きい武器だ。鎖は頑丈だな。だが、相手を切るのは不可能だ。首でもねじ切るつもりか」


「馬の上から、趙政の脳漿を叩き出すくらいは、できるだろ」


 重さに慣れてきた棍を振り回して、姫傑は両手で棍棒を掴み、左右に引いて、梁諱に向かって笑って見せた。


「趙にゃ、俺と戦おうなんて命知らずは、おらぬのよ。めぼしい相手、全部こてんぱんにしたからなァ。腕が鈍るんだよ」


「食事をさせてくれないか。長城警備は思いの外、精神を消耗するんでね」


 それもそうかと姫傑は頷き、胡座を掻いて座った梁諱に声を潜めた。いつしか梁諱の前には小さな机が置かれ、箸と皿が並んでいる。


「楚が秦に下った。楚王と項賴は、死んだ。甥の武将叡珠羽は行方不明だ」


「秦の進軍? しかし、斉には情報が流れて来ないな。貿易に関しては秦に下っているのだが、全くと言ってよいほど、侵略の情報がない。期待して遥姫を送り出したが、後宮の奥でひっそりと囚われの身で、未だ子を成したという情報もないし、連絡もない」


「遥媛公主……あァ遥姫か」


 姫傑は一度だけ見た、遥姫の姿を思い浮かべた。赤毛に美姫とは言い難い膨れ顔に、小さな眼は公主と言うには見目が足りない。斉梁諱は母親に似て美しいが、遥姫は無骨にも父親似のため、男顔に生まれていた。


 あれでは、天武も相手にしないだろう。種つけ目的とは言えど、美醜は重要だ。

 だが、褒姫は「遥媛公主さまは賢く美しい」と言っていた。


 水と一緒に添えられていた小さな薄荷を口に含み、斉梁諱は遠い眼をして、呟いた。


「しかし、女は化けるものだ、姫傑。秦への輿入れが決まった翌日くらいから、遥姫は急に美しくなった。鉛の白粉は止めろと取り上げたがね。妹ながら、その執念は恐ろしかったな」


 ほう。そんなに美しく? 何で俺を呼ばないんだ、朴念仁。

 悔しさが溢れた。


「それは、俺も見たかった」

「趙の種馬に、妹を奪われてたまるか。勝負と言って、またわたしを花街に連れ込む気でいたろう。まあいい、食事にし」


 楚々と衣擦れの音がして、大皿を持った褒姫が二人に近づいて来て、素通りした。


 階段を降り、疲れて外で引っ繰り返っている兵たちに施しを配り始め、残ったちんまりとした肉を丁寧に姫傑と、梁諱の皿に捧げ、にっこりと笑った。


「素敵なお話でしたわね。行ってらっしゃい」


 背筋を伸ばして、離宮の奥の自分の部屋に向かって行った。


 むろん、以降の料理は並ばない。空っぽの皿が空しく鎮座している。


「見ろ、機嫌を損ねたじゃないか。君のせいだ」


 姫傑は腹を抱え、大笑いし、釣られた階段下の兵たちも笑い出し、それを聞いた褒姫も少しだけ微笑んでいた。

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