斉の王太子――いずれ、機会は巡る
愛憐が鼻先に顔を擦り寄せる。しばし別れを惜しんで、螺鈿に彩られた宮殿の帳に手をかけた時、鼻がヒクンと動いた。
ここまで、海の香が漂っているのだ。
「
皇宮と回廊で結ばれている離宮。名を蘇芳宮という。やがて、さわさわと音がして、簪を手に、美女が姿を現した。
「趙姫傑さま。早朝ですよ、お静かに」
「悪ぃ。どうしても朝海が見たくて夜通し走っちまった」
麗しの王太后の出迎えに、王姫傑は揚々と、離宮の階段に足を掛け、にっと笑った。
「趙ではなく、王だ。どこぞの秦の莫迦が、愁などと名乗っている。ならば俺は王と名乗る。趙の太子の証はある」
「では、王姫傑さまで宜しいのね」
王族の証の印璽を首から提げ、腕には殷時代から伝わるのだか何だか分からないが、取りあえず高級腕輪。足に巻き付けた青銅の梢子棍(しょうこごん)は、青銅の棍棒を鎖で繋ぎ、振り回し攻撃する打撃系の、趙の伝統武器だ。
難点は自分に当たり、怪我は勿論、打撲死の可能性があるが、慣れれば至極使いやすいはずが、まだ使いこなせずにいる。
離宮の螺鈿細工に梅がはみ出して伸びている。宮殿の主の出迎えは、ない。
宮殿の階段を上がり、まだ人気のない早朝の冷えた回廊を通り、大広間に入る。
正面には大きな天龍を模した台座がある。
離宮でありながら、見事なものだ。趙の王宮に引けをとらない象嵌の技術は王太子の威厳を充分に受け継いでいる。
「梁諱は?」
瞳が優しげな、斉の太子の妻名は褒姫(ほうき)――はゆっくりと顔を上げた。睫が揺れる。
楚々とした振る舞いは、斉の貴妃たちを一目で黙らせる気品があった。加えて、才女を訴える柳眉に可憐な朱唇。
褒姫は一度、奥に下がり、また戻ってきた。小さな盆には、冷えた器に、梅の花。酒瓶。
恐らく、貴族に多い花酒であろう。桃を浮かべれば桃花酒。金木犀を浮かべれば金木犀酒。大層香しいものだ。
姫傑の前で、褒姫は膝を付き、酒を造り始める。
「花酒か。雅で、いいもんだな」
遊び上手で派手な遊女が好きな姫傑だが、褒姫の撫子姿は、嫌いではない。
飲めばすっきりと胃に落ちる、この花冷酒を思わせる。
(美味ぇ!)と呷って、手に手を添え、丁寧に注がれる酒の音が、美味を思わせ、まこと心地よい。
注ぎ終えた瓶をゆっくりと持ち上げながら、褒姫は微笑んだ。
「夫は不在ですよ。ごゆるりと、どうぞ」
「なんだ。梁諱と一矢を交えようと思ったのに」
「斉が季節は花朝でございますから」
(そうか、花朝、木の芽月。この時期の斉は、海の匈奴への対策に余念がないのだった)
海沿いの国ならではの艱難辛苦。
稀に海からの匈奴北の遊牧民族が海月の如く押し寄せる。親友の斉梁諱の本職は越境守備。匈奴との戦いに晒されている。
飲み干した椀に、梅を浮かべ、冷酒を注ぐ褒姫の袂は緩んでいる。試しに酒を勧めると、両手で椀を持ち、くーっと靜かに飲み干した。
「美味だろう」
返事の代わりに、褒姫はほんのりと頬を赤くし、桃頬を見せる。
「しばしおつきあいするだけですよ」
飲み干した椀に更に酒を注ぎ足して、褒姫は差し出した。ほ、と赤くなった頬を惜しげもなく晒し、緩やかな髪を片手で掻き上げる。
仕草のせいで、袂が緩んで、白い乳房が僅かに見えた。
(おお! 最高の持て成し!)
しかしこうして美女としっぽりと愉しむ酒は良い。気分良く、姫傑は立ち上がると、水平線を眺める。
「楚と協力して追い払えるのは、月氏までか。悪いな。趙は海戦には疎い。趙と楚は、協力して月氏を滅した。俺は遠征には参加しなかったがな。見事な戦いだったそうだ」
「まあ、好戦家のあなたにしては、珍しいお話ですね」
とん、と足元を指した。
「こいつを使いこなせなかったんだ。武器が馴染まないと、瞬く間に、あの世に飛ばされるってもんだ」
姫傑は足に絡ませた梢子棍(しょうこごん)を手にし、振るってみせた。風を切る音が、離宮に響く。両手で振り回して、靜かに床に置いた。
秦の勢力が強くなっている。楚へ潜らせた間諜からの連絡もない。不穏な雰囲気だ。
せっかく親切心で教えてやるつもりで、序でに作らせた棍の修練も兼ねて、生死を賭けた武道をやりに来たが、見事に肩すかしを食らった。
「夫は、勇士を連れ、長城にて遊牧民族を討ちに出かけておられます」
「そうかい。心配は要らねぇ。武勲を上げ、戻ってくるさ。梁諱に死なれては困る」
実は一度、斉は秦の攻撃を受け、打撃を食らっている。天武ではない。前王が鉄欲しさ・潮の相場を手中にせんがため、斉は滅亡寸前まで追いやられた。
斉梁諱は、斉の桓公の子供、斉の太子でありながら、妹の遥姫を秦に輿入れさせてまでも、国を護った。だが、秦の攻撃は度々矛先を向ける。楚に関わっている内に、体勢を整えるべきだったのではないか。なのに、趙の惚け爺たちが憚って邪魔をする。
「遥姫さまの努力を無駄にはできません。夫の梁諱も案じておられます。遥姫さまは大層お美しい方ですわ。賢い公主さまです。斉のために、自ら納得して赴かれましたが」
「俺は、気に食わねぇ」
秦の後宮の噂は趙にも届いている。
(別嬪を集めて夜な夜なだァ? てめえの墓、どんだけの男が作ってると思ってんだよ)
はっきり言おう。羨ましいのだ。
いや、悔しいと言っても過言ではない。趙の太子でありながら、姫傑には実権がない。いくら実権を欲そうとも、何人の爺を棺桶に叩き込む必要があるのか、想像もつかない。
歴史在る国の難点だ。
ただ、黙って機会を窺うしかない姫傑に比べ、天武は着々と事を進めている。
(焦っては駄目だ。いずれ、機会は巡る)
言い聞かせて、姫傑は椀を差し出した。
「白酒を所望する。褒姫、酌を」
姫傑は不愉快な話を打ち切り、褒姫を横に、談笑と、酒にて離宮で穏やかに過ごした。
見上げた空には、浮かび上がる龍が見えた。春の訪れを否定するような冷ややかな風が吹く。咸陽の空に浮かぶは蛟龍、更に遠き楚の空に浮かぶは、氷龍であった。
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