斉の王太子――趙国太子姫傑登場
人口は、約五~六十万人の巨大都市。臨淄(りんし)。
高台の上に築かれた建物は、都市の中心となる宮殿ばかりでなく、遊楽用の離宮までもが立ち並ぶ。
遊行を主とし、塩田と鉄を生業とする国だ。塩味は絶妙、当然ながら料理も美味い。鉄工業が盛んなため、変わった武器もあり、従って鉄を分解する技術から、高度な薬剤生成までも、こなしている。
姫傑はゆっくりと海岸を流し、愛憐に人参を差し出した。一緒に齧って、飲み下しながら、馬を下り、手綱を引いて砂浜を歩く。時折耳に届く波を打ち寄せる音が心地よい。
何か、踏んだと見ると、足元に書物が落ちていた。
斉の民は勤勉さにおいては、かの楚に引けを取っていない。
因みに、趙の連中と来たら書物など捲りもしない。ひたすら遊ぶか、派手な祭りをぶち立てるか。
(つまんねえ書物なんか読んでるんなら、駆け回れってんだよ、趙の長城を駆け抜け、山脈を越える度胸も自ずと付くだろが)
臨淄(りんし)に入る手前の関で、もう一度じっくり海を眺めた。
動じない、安定感のある大きな海原は生命の輝きを誇っている。この海があれば無敵。
姫傑は適当に巻いていた布を引き下ろした。乾いた硬質の髪が頬を打った。
手入れなど不要とばかりに、汚れた外箕は派手な黄色だ。黄色は黄龍神の色とされている。皇族にのみ許される色だ。
吹きすさぶ海風に外箕を翻らせていると、昨日の大臣たちの会話が脳裏に浮かんだ。
*
――太子姫傑よ。これより趙は、秦の王に忠誠を誓う。
――そうだ。これからは秦の王に従えば、国の名は残して貰える。楚を見倣え。巻かれようぞ、趙政いいや、天武さまは、龍に好かれておられる。咸陽の龍が良い証拠。
楚でも、天武さまは龍を操っておられたとか。まことの天子である。
*
趙からも分かるほどの巨大な龍の気が渦巻いたのは、楚の敗北と同時であったと推察する。どうやら、話題の天龍が咸陽の空に見えたせいで、迷信と伝承の大好きな老兵たちは居竦んだ。
打倒秦から、一転して、我が秦と、褒め称えた。訊いているだけで吐き気がする。
(何処までも気の長ぇ爺どもが。全員ごっそり纏めて、棺桶に叩き込んでやらぁ!)
姫傑は唇を噛み、足元の砂利を長い足で蹴り飛ばす。
太子たる姫傑に、秦の成り上がり小僧に平伏せとは、どういう了見か。
思い起こせば起こすほどに、怒りは増長した。
(何で俺が、ハナタレ趙政の機嫌を取らなきゃなんねえんだ。遊牧民族と手ェ組んだほうがよほど歴史に輝くぜ。いっそ秦を滅ぼしてやろうか。調子に乗りやがって。あと十発は石ぶつけてやりゃあ良かった。ああ、腹が立つ!)
だが、腹が立ったところで、王になれなければ、秦を攻める企ては不可能だ。
現在は、趙の王権は父にある。その愛妾が天武の母、趙姫であり、趙姫は、密かに嫡子を生んでいる。天武の父は不明だ。少なくとも、秦の王の子楚ではない。
姫傑は天武の出生を探るのを止めた。何やら爆弾が潜んでいそうだ。
男に狂っている狂女を、何故、父は愛し続けるのか。さては骨抜きにされたか。
さすがは、殷のかつての貴妃に拐かされ、民衆に殺された莫迦王の末裔。
(莫迦は俺もか)と姫傑は嘲笑った。
趙姫は御年四十路。別の男の名を呼びながら、あられもなく夜雁声(よがりこえ)を響かせ、お盛んだ。年老いた趙王に取り入っている。したたかな女。
(待とう。俺にも、状勢ひっくり返す機会は必ずある!)
趙の状勢は、いずれは変わる。姫傑は反旗を翻す機会の訪れを疑いもしなかった。
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