第四章 斉の王太子 善く其の妻を哭し 長城に伏す

斉の王太子――巨大首都・臨淄(りんし)の洞窟

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(相変わらず陰気な洞窟だぜ! あー嫌だ嫌だ!)


 暗澹とした洞窟はいつ頃からできたものか。一見、自然の要塞にも見える巌洞は、まるで蛇腹の如く、暗く長い。

 時折足元に天井から水滴が落ち、音を立てている。

 水音に怯える馬を宥め、ゆっくりと手綱を掴み、王姫傑は足を進めた。胸元には王族を示す大きな紋章が揺れ、激しく鎖骨に衝突していた。

 趙と斉は、隣国でありながら、山脈と、長城にて大きく隔てられている。

 苔のびっしりと生えた岩室は、ひんやりとしていて、湿っている。

 春と言えど、まだ肌寒い。洞窟の内で、陽の昇る前であれば尚更だ。


 秦の王、愁天武による楚国攻撃の無血開城から五ヶ月。


 山脈を果敢に越えて訪れた、ある旅人が酒場でほろ酔いで楚の状態を口にし、結果、楚が完全に秦の手中に落ちた状況を知った。


(なんてこった、あの、楚国が滅んだって?)


 蛇腹の洞窟の水気が減ってきた。間もなく洞窟を抜ける兆しだ。

 暗闇に怯えていた馬が眼を吊り上げ、横で鼻を撫でた姫傑を見つめた。更に優しく鬣を撫でると、馬はぶるると鼻を鳴らす。

 雄々しく鍛えられた上でも、美麗さを損なわない白い馬肌。趙の太子として元服した折に、祝いにと与えられた白馬だ。

 いつも潤んでいる瞳から、愛憐(あいれん)と名付けている。

 とっくに他界した母親の名を一字つけた姫傑の愛馬で俊足に関しては申し分ない。

 秦の天武の朱鷺と乳兄弟。父馬が同じ名馬だ。

(まあ、馬に否はないわな)

 湿った地面を蹴って愛憐に飛び乗った。手綱を口に銜え、強く引き、片手で受け止める。

「よし、行くぜぇっ!」

 突然の声に驚いた蝙蝠が、姫傑を洞窟に入り込んだ侵略者と飛び回って、馬の進路を阻み始めた。しばし我慢していたが、頭上に向かって怒鳴り散らした。

「うるせえ! 集団で、ばさばさ騒ぐんじゃねえ!」

 足に備えた棍を素早く握り、繋げた鎖を引き絞る。振り回して、何羽かの蝙蝠の頭を叩き飛ばした。

 瞬く間に群れは増え、激しく姫傑を攻め立て向かってきた。

 集団を頭に連れ、泥混じりの土を蹴散らすかの如く、走り続ければ、靉靆たる洞窟にも、やがて光が漏れてくる。

 光を嫌う蝙蝠たちは、一斉に岩室に戻っていった。

 降り注ぐ光が強くなる。


 抜ける――来る……っ。


 光が強くなってきた。飛び込む光とともに、陽の温かさも拡がってくる。光の洪水に飛び込むかのような感覚は、地獄を這い出たように思え、上げた双眸にはいつも涙すら溢れるのだ。

 やがて溢れ出した陽光に、姫傑は潤んだ眼を細めた。


 しばし視界が揺らぐ。一晩暗黒の洞窟に慣れた瞳は焼ける如く熱い。

 光の渦に巻き込まれ洞窟の大穴を抜けた眼下には、美しい海が広がっていた。


「見ろよ、愛憐おまえと同じく、白く美しいだろ」


 天界の海と恐らく大差ないであろう、碧の海は銀の飛沫を上げ、あたかも宝石の如く陽を水面に映している。

 朝日は、海の彼方から昇り、水面を一瞬で白銀に染める。

 姫傑は愛憐の歩みを止め、一度抜けた洞窟を振り返り、手を翳して朝日を見つめた。


 暗澹にゆっくりと、紐解くように光の面紗が拡がってゆく。

 深夜、故郷の趙を出発し、夜通し鬱蒼として陰気な洞窟を走り、危険だと言われる夜の山脈を走破するのは、海原を照らすたった一瞬の朝の陽光を見るためだ。

 七色に光る水面は、透明になり、また深い色に戻る。筆で描いたように、蛍光の筋が水面にいくつも走っては、煌めいた。

 洞窟を抜ければ、いきなり目下に拡がる青海原に潮の香。

 遠くには霊威山の琅邪山の悠々たる姿が認められる。大陸広しと言えど、この斉の海に敵うような絶景は恐らくない。


 季節は、間もなく蘭花の咲き乱れる花朝節。 

 春の雪解けに乗り、海の匈奴が押し寄せる時期。

 白い波がゆらりゆらりと水面に揺れている。


 絶景に恵まれ、秦の咸陽を隔てた遙か遠くの海の地。名を斉と言う。


 姫傑が目指すは、斉の巨大首都・臨淄(りんし)であった。

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