天の花后妃――天帝の庭、栄華さすれど孤独は潰えず――

 天帝の庭――。

 庚申薔薇咲き乱れる、四季折々の花に、宝玉を沈めた玻璃の輝きの池。白銀を撒き散らした白亜の堂に、天高く聳える天壇の居城。碧玉を敷き詰めた庭は美しく、仲秋の満月のような月は靜かに登り、紅玉の太陽を連れて来る。

 地上では桃源郷と呼ぶ、華仙界。

 だが、人間の花芯を天界に連れてゆくには、被害が大きすぎる。

 飴色の瞳の中に、龍の輝きを見つけ、香桜は微笑んだ。

「どのみち、天武はおまえの存在など、眼中にないよ。だが、俺の手に懸かれば、おまえは美しく変わる。気付かないか? 天武を一時、その気にさせただろう」

 恥じらう花芯に腹の中で悪戯蟲が騒ぎ出す。香桜は更に強く続けた。

「いいや。一瞬でも、天武はきみの前で、そそり立てた。それが証拠だ」

「そそり立てたっていやらしい言い方」

 花芯は焦って両頬を自らの手で包み込んだ。可愛らしい愛猫の仕草に、顔が綻ぶ。

「天武さまを、手に入れられる?」

 あどけない口調だが、欲に染まっている。得てして欲の染まった時ほど、女は美しい瞬間はないと思う。薄く開いた朱唇の奥が、きらきらと光っている。ふっくらした唇は更に赤味を射したような。

「望めば、天武さまだけでなく、この世界もすべて手にできる」

 花芯の瞳が一層きらっと輝いた。欲を溢れさせて花芯は、ゆっくりと首を振った。

「世界なんか、要らない。天武さまだけでいい。香桜さま、分かりませんの? 花芯は、ずっとそれだけを夢見て、生きて参りました。どうか、私を天武さまの元に。死にそうで辛いのですわ」

「天武の傍に、おまえの居場所はない」

「視えたのですわ。私は、ずっとずっとあの人のお側にいるの」

 なんと強情な娘。龍の気を纏った花芯はただ、瞳を動かして、香桜を見つめている。

「きみの名前は、系譜にはない。それが何を意味するのか、分からないのだろうね」

(いずれ、手を下さねばならぬ刻が来る)

 呟いて、熟れた果実を剥いて差し出してやると、花芯は大人しく受け取り、口に運んだ。

 四阿に大きく開けた壁に座り、横笛を撫でさすり、香桜は目線を強める。

「秦は楚を手中にした。珠羽は逃亡の憂き目に遭い、劉剥は天武の手に落ちたも同然。次は斉、恐らく遥媛公主が狙われる。趙に置いては想像力の限りを尽くす、残虐絵図。俺は、きみをそんな雑多な中に置いておきたくなかった」

 香桜は優しく髪を揺らすと、再び花芯の頬に触れる。龍の気を感じ取った花芯は、少しずつこの瞬間でも、麗しさを増していた。

「私は天武さまの貴妃。だから、何でもする。華毒を作り、お役に立ちますわ! 一人ずつ、消しますの。そうして、地上に二人きりになれば、きっと天武さまは私に振り向いてくださる」

 頑固な言葉に香桜は、まだ未分化の花芯の四肢を抱き締めた。

「何故、解らない!」

 瞳の奥に、孤独な時間が甦った。僅かに震えながら、香桜は捻り出し嘆く。

「誰かと永遠に生きてゆけたら、死しても構わない。俺は……っ」

 しばし時間は穏やかに過ぎていった。

 香桜はふっと花芯から離れる

「秦に戻ろう」

 袖から焚きしめた帛紗を取り出した。ところで、袖がつんと引かれる感触がする。

「ねえ、どうして、一緒にいるのに、孤独なんて言うの……」

 俯いたまま、花芯は肩を震わせている。

(そうだな)と愛を噛みしめながら、答は与えず、口元に帛紗を当てると、花芯は微笑んだままの香桜の腕に倒れ込んだ。

 香桜は、楚から秦への険しい山脈の道を進んでいる本軍にこっそり合流して、素知らぬ顔で関を潜り、咸陽に戻った。

 天武の傍には、武大師ではなく、陸睦が寄り添っており、後には翠蝶華を乗せた馬が続く。楚の財宝を積んだ車軌に、ありったけの武器を積んだ板車、楚の鎧を大量に積んだ荷車が続いて、もの言わぬ楚兵が歩いている。その数は万を超えるだろう。

 また、あの過酷な陵墓に投入するのか。

 城壁の作られた、王の墓。天を模した宮殿に、更なる拡張される皇宮。取り巻いたまま生い茂った火棘が、燃えるような赤い果実と枝の鋭い棘を見せつけていた。

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