楚の猛将虎――〝予定通り〟の終着

 金色の龍は大層機嫌を損ねている。楚の凍った山脈に、氷龍が根を張っているからだ。

 慟哭が、雨嵐を呼んだ。

 天帝の龍騰蛇は香桜を乗せ、咸陽に舞い上がる。


 ――あれだ。俺の見たい物……。


 冬の雨が降り注ぐ。雲の上から地上を眺めると、一頭の黒馬が疾走している光景が視界に入った。珠羽だ。僅かに残った兵を薙ぎ倒し、大剣を振るい、馬を走破させている。


 香桜の千里眼は、常に珠羽を追いかけていた。馬の足が土砂で滑る中、珠羽は一つの大きな門の前で馬を止めた。


 咸陽承后殿・皇宮――。



「庚氏! 庚氏――っ……開けろ! この扉を……っ」


 びしょ濡れで張り付く髪を振り乱し、喚き叫んだ。馬から転がり落ちて、雨で滑る地を踏みしめ、両腕で扉を叩く。

 香桜は龍の上で身を乗り出した。

 咸陽の門は橡仕立ての上、青銅を混ぜて強化している。たちまち珠羽の手は血で染まった。それでも、珠羽は扉を叩くのを止めない。


(なんと激しい気性の持ち主だ。珠羽は。項賴が死んで、庚氏を縛る者は誰もいなくなった。その隙に奪還しようと? 祖国を捨ててまでも?)


 ゆっくりと扉が開いてゆく。血みどろの泥だらけの男は、幽鬼の如く、皇宮に足を踏み入れた。珠羽は九十九ある段を上り、衛兵に取り囲まれ、足を止めた。


「その男は、私の客だ」


 遥媛公主だ。艶やかな姿に、皇宮の人間は平伏した。上半身をすべて覆えるほど大きな紫綬羽衣、金襴緞子を織り込み、銀糸で縛り上げた朱の帯、緩く束ねられ、こぼれ落ちる紅の髪、斉の象嵌の首飾り。公主山君の名に相応しい出で立ちだ。

 歩く度に、びしゃ、びしゃ、と水溜まりができる。満身創痍だな、と呟いた後、遥媛公主は珠羽に笑いかけた。


「莫迦な男……だが、嫌いではないのでな」


 遥媛公主は珠羽の腕を引き、立ち上がらせると、皇宮の細道を急いだ。


「おまえの追い求めるものは、渭水の南端だ。だが、その体では抱けまい」


 珠羽は何も言わず、ただ、優しく微笑んで、遥媛公主を覗き込む。遥媛公主は渭水の宮殿群に繋がる斯道のとば口に、珠羽を立たせた。

 眼の前には、抜け穴のような、暗澹した回廊が続いている。


「どの宮殿も、皇宮からしか出入りできぬ仕組みだ。ゆけるな? 見張りはおらぬ」


 珠羽は無言で、腕を押さえ、一歩一歩を踏み出した。

 宮殿から伸びた二階回廊は、皇宮から四方に伸びており、ちょうど星宿の図を模倣している。偶然にも、天帝の住まいのある紫微宮と酷似している。


 ――全く、天武は、どこで天界の様子を知ったのだか。


 ちょうど天武の皇宮の位置は二十八星宿の中央の神、黄龍に当たる。各貴妃たちは方角を定められ、四神に相当する。庚氏の宮殿は南方朱雀に該当する。

 すべては回廊で繋がっており、それも天空の星の配置と軌道に一致する。従って、星々を渡り歩く構図は、そのまま天帝を意味する。


 ――しばし天帝を気取らせてやるさ。たかが五十年しか生きぬ天帝など、塵のようなものだと気付くまで。


「ここを通れば良いか……ここが、秦の王の……」


「後宮だ。咸陽承后殿とは、今や宮殿群すべてを指す。天武とて、全部を把握はしておらぬて」

「そなたの名は……相当な身分なように見受けるが」

「なーに。しがない貴妃だ。斉の遥媛。位は公主」


 公主とは王族の娘を指す。珠羽は深く頭を下げ。主室に一歩を踏み出した。

 珠羽は、走っては、掌の痛みに足を止め、星を見ながら進んでいる。途中の道がささくれ立っており、間違いそうになったので、手助けをした。

 不自然に思われない程度の天の光を注ぎ込むと、珠羽はすぐに方向を変え、夜の宮殿を歩いて行く。

 明道の終わりが見えてきた。


 珠羽の足が、最後の宮殿への回廊に辿り着く。螺鈿琵琶の音が響いた。


「あ……」と小さく声を発し、珠羽が崩れ落ちる。


 回廊を抜け、進んだ先には、黒の蝶のごとく、長衣を翻した庚氏がいた。月の光で、辛うじてお互いの姿を認め合い、庚氏はゆっくりと両腕を広げた。

涙声に釣られて、珠羽の精悍な瞳にも、水滴が溢れる。


「おかえり……なさい……」


 声が出ない珠羽の頬を両腕で包み込み、庚氏は妖艶に微笑み、静かに長衣を落とし、誰もいない回廊で、珠羽を求め、唇を押しつけた。

 蛇の舌の速さで舌先を交換する。庚氏は珠羽の泥のついた指を食む。涙が溢れて、子供の仕草で珠羽にむしゃぶりついた。

 満身創痍の血と泥に塗れた手で、珠羽は性急に庚氏の貴妃服を引き裂き捲り上げ、中央の花蕊に向かって、脈動を訴える己自身を突き立てた。

 耐えきれず、庚氏の口から喘ぎが漏れる。


「嗚呼、あなた……っ……予定通り、無血で、地を護れたのね」



 その唇を滑らせて、首筋を上がり、朱唇に齧り付いた。腕を絡めて、回廊に倒れ込む。その後の展開は、見るまでもないだろう。



              


 反逆に備えての牽制のため、城壁に置かれた項賴の両眼は未だに見開かれ、楚を見据えている。


「死したそなたが未来を案じる必要はない。その瞳を閉じよ」


 天武は手を項賴の首に伸ばし、双眸を閉じさせようとしたが、硬直した瞼は動かず、無血開城した楚の都を靜かに見つめて続けている。

 楚の人々は秦の兵に追い立てられている。大きな太鼓と、金の柱が運び出される。


「楚の人間は戦いを放棄した。軍事国が訊いて呆れる。そなたは、ここに置いてゆく。せいぜい、祖国の行く末を、見えぬ眼で見れば良いわ。達者で。叡項賴」


 城壁に置かれた項賴の首に陽の光が降り注いでいる。

天武は二度と振り返らず、燃え尽きた皇宮に足を踏み入れた。


 此度は、秦軍の全面勝利。


血は流れなかったかのように見えたその陰でただ一つの犠牲がある。

 逃げられぬまま、息絶えた子供の焼死体は、すぐに見つかった。

うつぶせになり、小さな腕を伸ばして、背中から焼かれたのか、見え隠れする背骨にも煤が溜まっている。


 ――まるで、ご自分の話の如く言いますな。


 天武は無人の皇宮で、一人、子供に向かって、嗚咽混じりで囁き、謝った。


「すまぬ……未来を奪ったのは、私だ……」


――今なら、誰も見ていない。灰になった子供の前に頽れた。




「そんな姿、見たくないわ……」

翠蝶華は声を掛けられず、ただ、立ち尽くしていた。冬の匂いに混じり、天武の嗚咽は岳樺のざわめきの中、どこまでも続いた――。


                 *


 視界を遠く投げ、香桜は楚の空にもまた蛇行する龍を眺めやった。氷龍だ。咸陽の空にも、蛟龍が天子の気と共に蜷局を巻いている。

 楚は、項賴の首だけで全面降伏し、血は流れなかった。


 これで、楚は亡びずに、名を残す所業に成功したが、単に、秦の傘下で生き存えたに過ぎなかった。新たな楚国が秦から逃れる手段はない。自尊心を砕かれ、縋り生きてゆくだけの現実が待っている。


〝いつか取って代わってやる〟


 それを見抜いて、珠羽は幼少に、天武に喧嘩を売ったのかも知れないとしたら?

確かに〝予定通り〟にすべては終着したのだ。激動の時代の予感がした。



※ ――楚の猛将虎 完結です。次は「斉」の事変となります。本編は古代中国をベースにした完全オリジナルぶっこみ戦記です。


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