楚の猛将虎――俺のまことの主とは

「天武さま! 皇宮に火が!」


 子供王の住む皇宮が燃えている。天武は赤々と燃えている火に頬を照らして、唇を噛んだ。――秦の王よ。まるで、ご自分の状況の如く言いますな。

 項賴の首を髪ごと掴み、震える陸睦の腕に押し込める。カッポカッポと戦いにはそぐわない緩い馬の蹄の音は捷紀だ。


 捷紀は項賴の首のない四肢を見下ろし、すぐに視線を天武と陸睦に向けた。

 天武は長剣を抜き、項賴の亡骸の前に仁王立ちになった。クックと捷紀が笑う。気付いた陸睦が声を上げる。


「駄目です! 天武さま!」

「おまえは黙って、項賴の首を抱き締めていれば良い!」

「違います! 馬の尻、見てください!」

「馬の尻など見ている暇はない!」


 いつも通り一喝した天武は、更に気がついて、目を瞠った。


「翠蝶華! 捷紀! どういうつもりだ」


「この馬は蹄鉄炎の寿命でね。皇宮の葬送ついでに弔ってやろうと思うのだが、どうだろう。このまま、俺が飛び降り、脇腹を蹴れば、火炎に馬は飛び込む。赤い蝶の見事な天舞を、項賴への貢ぎ物とするか」


 捷紀は懐から、小瓶を取り出し、眼を細めて月に翳した。


「主が本懐を遂げるまで、おとなしくしていてくれないか」


 天武は怒りに震えながら、言い返した。


「項賴の首は秦が捕った。主の死が、わからぬのか!」


 捷紀は馬を緩く進めると、うち捨てられた項賴の骸を蹴らせて見せた。主従の態度ではない。


「この俺が、項賴なんぞのつまらぬ男に、付き従うか」


 捷紀の表情は嫋やかな男から、猛禽類へと変わって行った。


「俺の主は、破天荒な男であるべき。欲すもののためになら、国を見捨てるような……な」


 垂らしていた黒髪を素早く髪に縛り上げ、捷紀は絶句した天武を、まっすぐに見やった。

 声は夜空を駆け、凍り付いた山脈にまた氷が降る。捷紀の声音は変わっていた。穏やかさなどのない、容赦のない冷たい男の声に。

 天武と陸睦の前で捷紀はゆっくりと告げた。束ねた黒髪は長く、氷の季節に舞ってゆく。



「俺のまことの主は、叡珠羽。それは、当初から変わらぬぞ?」


 時は仲秋の満月の終盤。やがて本格的に冬が来ようとしている。

天武の黒髪を北風が攫い、頬を冷やして行った――。



               *

香桜には聞き覚えのある声だった。



 ――白龍公主芙君――。



 地上には知らず数多の仙人が降りている。白龍公主芙君もその内の一人だが、天帝たる香桜の命令は一切、聞かない。謂わば、はぐれ仙人である。

 香桜は馬を近づけ、天武に告げた。


「天武さま。秦軍二万、石橋の奥に待機してございますが」


 天武の眼は怒りで染まってしまっている。いや、目線は既に翠蝶華に向けられている。しかし、天武の怒りは、すぐさま香桜に向けられた。


「何をしておる! 翠蝶華を!」

「申し訳ないが、俺の範疇外。秦の函谷関で、珠羽を撃退しただけでも感謝して欲しいね」


「珠羽を撃破? 追い払ったのは、そなたか。珠羽は、秦軍百余名を蹴散らしたと言ってきた。皆殺しではなかったのか」


「俺が剣で追い返した。翠蝶華が知ってるはずですよ。それに、危害を加える気のない武人の茶番に付き合うような暇は、ないと思うけどな」


 そう、捷紀は天武や翠蝶華に危害は加えない。知力に長けた、脅し専門だ。

 男でありながら、白龍公主などと呼ばせる綺麗好きな白龍公主が、血を見たがるはずがない。


「花芯はどこだ」


 やれやれ。今度は別の女の心配だ? 


(妻を守るは夫の役目。朴念仁は引っ込んでいろ)と思いつつ、香桜は笑顔を絶やさず、秦軍を見やった。


「あの中のどこかに保護されていますよ。それより、天武さま」


 質問したい言葉を思いつき、答を想像して、香桜は、にまりとした。


「先ほど、項賴の酒を断ってから、何処で何をしていたんですか」


 天武はしばし考え込み、視線を宙に泳がせた。

見れば翠蝶華もこんな時だと言うのに、頬を赤らめている。恐らく二人は睦み合い、懇ろになっていたのだ。ただ、天武がまだ距離を取っているところをみると、成就していない事実が見て取れる。


 ――せっかくの機会を見逃した。だから、真面目に仕事をするのは嫌なのだ。


 天武は返答から逃げ、素知らぬ顔で、捷紀と向き合っている。


「先ほど、主が本懐を遂げるまで、と言ったな。仮に私がここで、楚への攻撃を示唆したら、楚は滅びるのではないか。項賴亡き後は、珠羽が率いるべきだ」


「どうぞ。好きにすればいい」


 天武は耳を疑ったようだ。白龍公主は何年経っても淡泊で、冷淡だ。操る氷がそのまま心まで凍らせたのではあるまいか。

 天武の手が震えている。好戦的な言い方は、華仙人の特徴。


稀に、人間に勝つのが分かっていて喧嘩を売るような莫迦華仙人が存在する。


 震えの止まらない腕を、天武は持ち上げ、剣を掲げた。


「秦軍に告ぐ! 剣を掲げよ! 楚の都、郢を焼き払え! 今こそ、秦の力を見せつけよ!」

「やめて! 秦の王!」


 翠蝶華だった。翠蝶華は涙を浮かべ、捷紀に捉えられているのも忘れ、天武に訴えた。


 ――これは驚いた。


 眼の前で、翠蝶華は捷紀の腕を振りほどき、地に両手をつけた。


「これ以上、殺生はしないで! お願い……焼き払えなんて止めて……!」


 天武も驚いて、翠蝶華を見つめている。はらはらと落ちる涙に眼を釘付けにして、ぼそりと「無血開城なら良いか」と訊いている。


 ほ、と翠蝶華の頬が緩んだ。

 更に驚いたことに、天武は翠蝶華に跪き、頬を手で撫でて見せた。


「そなたが地に手をつける必要はない。香桜」


 お鉢が回ってきた。しれっと答えた。


「はい、何でしょうか」

「二万の秦軍を、楚へ。陸睦とともに、兵を回るのだ。陸睦の持つ項賴の首は、反乱兵を無血で降伏させる。珠羽がおらぬ楚兵など、戦力はゼロに等しい。今にして思えば、楚は項賴と珠羽が角を突き合わせ、成り立っていた砂上の楼閣だったのではあるまいか。捷紀、違うか」


 項賴の首を見た翠蝶華が「ひっ」と声を上げた。全く難儀な娘だ。


 香桜は恭しく頭を下げた。


「俺より、手柄を上げた陸睦将と、武大師さまが適任かと。二万の兵を率いるのは、まだまだ俺には力不足ですよ」


 嘯いて、馬を引いた。楚が亡びる瞬間などより、見たい物があった。

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