楚の猛将虎――首を持て。

 周辺を見回し、把握できないまま、長剣を握り締めた。

 いかにも気弱そうな呆然としながら歩いていた兵の腕を掴み上げ、物陰に引きずり込んだ。驚き、名を口にする前に、剣で喉元を押さえる。逆刃にしたが、脅しは充分。目を細め、天武は更に剣を近づけた。

「動くな。首が落ちるぞ。何があった。敵襲か? 違うなら、首を振れ。合っているなら頷けば良い」

 楚兵は首を振った後で、目に涙を浮かべ、天武を見上げた。

「項賴さまが、殺されたのです。暗殺です! 項賴さまは、楚の物ではない毒にて、殺されました!」

 天武は更に、詰め寄って胸ぐらを掴み上げる。

 ――楚のものではない毒……。

『母は先の燕の戦いで死にましたの。方士でした』

(何故、ここで思い出す……そうだ。花芯は、花芯はどこにいる)

 直感か。天武は花芯を思い出していた。あの娘なら、やりかねない。

(花びらがたくさん詰まった小瓶が落ちて、正気に返ったのだった……何故気付かない。遥媛公主と見た貴妃の口元の花びらだ……!)

「私の兵はおらぬか!」

天武は盆をひっくり返したような騒ぎの中、朗々と声を張り上げた。

 楚も秦もごちゃまぜだ。兵士たちが足早に武器を手に集まり始めている。

その刃が天武に向き始めた。 

 気がつけば囲まれている。円陣になった中央で、天武は剣を抜こうとし、中央から歩いてくる男に視線を注いだ。

「捷紀……これは、いったいどうなっておるのだ!」

「残念だな。秦の王。まさか項賴を殺してくれるとは」

捷紀は穏やかではあるが、僅かに怒りを滾らせて小瓶を持ち上げ、目を細めた。桃色に透き通った花芯の小瓶だった。

「この花は暖かな土地に芽吹く毒の花。従って、北の風土の我が楚には存在しない。項賴は、どうやら酒に、この毒の粉を忍ばされたらしくてね。この小瓶は、あなたが連れてきた貴妃が落としたもの。となれば、あなたが指示した事実は、歴然」

 衝撃的な捷紀の言葉は、天武の予想と同じだった。

 捷紀は、いつぞや、夜の氷龍の悪戯を語った時と同じ口調で、ゆっくりと告げる。

 項賴の死を悲しむ素振りもない、穏やかな表情は逆に恐怖を感じさせた。

「そなたは! 項賴に心酔していたのではなかったのか! 捷紀!」

 捷紀は感情のない声で、微かに笑いを滲ませた。

「秦の王を討つべし。楚兵よ」

 思慮に耽る時間は与えられない。楚兵の攻撃に、天武は剣を抜かざるを得なくなる。

 ふと、秦の兵の姿が見当たらない状況に不安を覚えた。天武は僅かに目を伏せた。

 孤独感が押し寄せてくる。

 翠蝶華の言葉が響いた。

『天武が夜を貴妃と過ごす度に、花芯妃さまは……部屋の近くにいるのですわ。……秦の王は、愛情も分かりませんのね』

(私が翠蝶華と過ごしたから、花芯は項賴を殺そうとしたか)

 逃げながら、天武は言葉にし難い不安をまざまざと感じ取っていた。

足を止められず、蜈蚣の如く逃げ回り、楼閣から、どうにか、石橋までをひたすら駆け抜けた。

 夜の帳の降りた土壁に背中を寄りかからせる。一際大きな窪みを見つけ、剣を手に、身を潜めた。

ばたばたと楚兵が走り去ってゆく。天武は唇を歪めた。肌がぴりぴりと痛む。

冬の寒風が、押し寄せている。

月は陰り、薄雲の内に、丸い姿をぼんやりと浮かび上がらせていた。

 進めど、秦の兵は見当たらない。香桜が謀ったか――私は一人か。あんな得体の知れない、笛吹きにすら、謀られるのか。

「天武さま! お探ししました!」

 絶望に片足を引かれ、見回した天武の前に、陸睦の軍数名が現れた。陸睦は厩舎で見た普段着ではなく、正式な軍服と、鎧で身を固めている。華陰の時に比べ、威厳がついたように感じる。

 二人の将の内、一人が乗っている馬は朱鷺だ。天武は朱鷺を見るなり、安堵した。

「秦の軍は、異変を感じた武大師さまの判断で、石橋を超え、香桜さまの軍と合流しております」

「武大師がおまえたちに?」

「はい! 俺の澪が恐らく一番早いからと。天武さまをお連れする名誉を下さいました」

 天武は陸睦が掲げているものに目をやった。

明らかに不必要と思われる武具一式が揃い踏みしている。後宮に入る際、預けたはずだが。楚の美女を手酷くあしらったせいか、姿が見えなかった武具一式だ。

「何を持っておるのだ」

 三人の将は顔を見合わせ、馬から下りた。

陸睦を中心に、三人の将が恭しく膝元で天武の指示を待っている。

着替えた後放置した軍服用の着物を手にしているもの、銅剣代わりの長剣を捧げ、跪くもの……陸睦は、板に載せた鎧一式を両手に掲げ、天武に膝を突いている。

「機は満ち足りてでございます。どうか、ご命令を」

「何を言っている。戦いなどする必要がな」

 天武は言いかけて、はっと陸睦を見下ろした。

 項賴が死したのであれば、好機だ。若き王の首を取り、項賴に従っていた楚兵を手中にできる。楚を落とすには、子供王の存在を消せば良い……。分かってはいた。

迷う天武の心境など察せるはずもなく、陸睦は、きっぱりと告げた。

「ご命令を。楚との同盟は崩れましょう! 天武さま、お支度を! さあ!」

 天武は震える手で、鎧の下に防弾代わりの濾した布を腹に巻き、秦の漆の鎧を手にした。鎧の重さは感じない。長剣は銅剣ほどの迫力はないが代わりに長さがあり、美しい。

長剣を月夜に翳し、声を上げた。

「我が秦軍に告ぐ! 叡項賴、並びに楚王、翔覧の首を取り、楚国を陥落させよ!」

「援護します! 天武さまの馬を! 魏将二百騎、突入だ!」

 将の内の一人が、馬を下りた。降りて「尻汚しお許しください」と頭を下げた。

 朱鷺は、趙から連れ出した刻と同じ、靜かな目で天武を見つめていた。

「そなたの馬には、私と同じ真鍮の鞍を進呈しよう。尻汚しの礼だ」

 嬉しそうに頷いた将を小突き、やっかんだ将たちが眼の前で言い合いを始めた。

陸睦は唇を尖らせた。

「天武さまは、甘すぎますよ」

「――おまえには武勲を立てさせてやる。項賴の首は、おまえに任せる」

 理解できていない、細くなったが、変わらぬ輝きの瞳に頷いて加えた。

「おまえが手で、項賴の首を落とし、手中にせよ」

 武人なら皆知っている。敵将の首を取る意味を。呆気に取られていた陸睦だが、片眼を輝かせ、同じく強く頷いた。

 二騎の馬が、楚の砂城を走り出す。朱鷺は大きな後ろ足を高く上げ、天武の手綱通りに速度を上げた。だが、陸睦の馬のほうが早い。いや、陸睦のために、澪が力を振り絞っているのだ。陸睦は勇ましくなりつつある上半身を伸ばし、片手で手綱、片手に大剣を握って、楚兵に正面から勢いよく突っ込んだ。

「退けぇーっ!」

 兵を掻き回し、皇宮であった中央の楼閣へ進路を取った。

 馬が走るには、道は細すぎる。だが、天武の馬と、陸睦の馬は、まるで鹿の如く、軽やかに速度を上げてゆく。手綱を操り、時には跳躍する馬二頭は、兵を蹴散らし、砂埃も厭わず、楚の城を駆け抜けた。

「陸睦、目的は項賴の首だ! 辿り着いて、剣を振るうまで、走れよ!」

 二頭の馬に向かって、火矢が飛んでくる。

遠くから、秦の旗を掲げた一軍が見え始めた。

 ――香桜、二度の裏切りではなかった。凍った山に秦の赤い旗は何と映えているのか。

 襲歩から、走破へ。合間に捷紀が身を翻すのを目で捉えた。捷紀が爪先を向けたのは、天武に与えられた宮の方角だ。花芯か、翠蝶華が狙われている。

 天武の馬が止まった。朱鷺が主人の不調を感じたためだが、戻るわけには行かない。

「天武さま……馬が足を……武将が手綱を放しては」

 天武は緩んだ篭手の紐を銜え、歯で挟んで強く締めた。手綱を手に巻き付けて、朱鷺の上半身を天高く上げさせる。

「いや、行こう! 全力で従いてこい! 楚兵を蹴散らせ!」

 ぐるりと楚兵が円卓を護る如く、項賴の亡骸の前に陳列していた。

 気がついた時には、陸睦の馬は飛び上がっており、馬足で数人が蹴倒された。天武の剣で、幾人かが血を噴き上げた。

 司令塔のない軍など、烏合の衆だ。蜘蛛の子を蹴散らすより早く、楚兵は総崩れになり、援軍もいなかった。しかし珠羽の姿が見えない以上、安心は危険だ。

「陸睦! 珠羽がいるやも知れぬ。剣と知力に長けた猛将だ。おまえでは太刀打ちできぬ」

 陸睦は無言で馬を止め、天武もやがて並んだ。

「目的に辿り着いたな」

 淮河の畔。項賴の骸は、茣蓙に乗せられ、ただ、風土に晒されていた。

死者を皇宮には運べない。陰の気が抜けるまでは放置するしかないのだ。

 項賴の双眸は凝固していた。死後硬直した唇は色味はなく、ただ、花毒の粉が頬に散っているのみで、無色から、土色に変わっている。

 寝転がった状態の、かつての猛将の首に、陸睦は靜かに刃を向けている。死体なぞ、あまり見た経験もないのであろう。瞳が潤んでいた。

天武はふと、昔の燕のできごとを思い出した。

 人であったものを切り刻む音と感触は、一生涯、天武自身を悪人に仕立て上げる。

だが、秦の古兵を黙らせるには、陸睦が敵将の首を落とし、掲げる手段しか存在しない。

(済まぬ、陸睦……おまえの力は必要だ。耐えよ)

 さすがに陸睦は腕を震わせて、刀を下ろせずにいた。

だが、狐の瞳は赤い炎を滾らせ、一心に獲物を睨んでいる。

 ――王であろうと、死ねば孤独か。憐れ過ぎて見てられぬわ。

 ふと、耳が馬の猛勢の足音を捉えた。時間がない。楚軍はおよそ二十万だ。決起されれば厄介だ。早めに黙らせる必要がある。

「陸睦! 珠羽の軍かも知れ」

「うあああああああああァああああ!」

 飛び降りると同時に、項賴の首に向かって、陸睦は剣を振り下ろす。

月夜に陸睦の剣と、鮮血が飛び散った。

はあ、はあ……一人の少年の呼吸だけが淮河に響いている。一人の楚兵が剣を落とし、むせび泣いた。

項賴は目を見開いた苦悶の表情であった。陸睦の腕がだらりと下がった。

 動けずに、胴から別離した首を見つめている陸睦の頭に、天武は腕を乗せた。う……と小さな嗚咽が混じる。

「良くやったな。華陰といい、今回といいおまえは、まことの武将だ。胸を張れば良い。荊軻のような、珠羽のような、強い武将になるのだ」

「天武、さまぁ……っ」

 ぼろぼろと片眼から涙がこぼれ落ち、抱き締めた天武の篭手を滑って地表に染み込んだ。

「まだ終わりではない。そなたの手柄だ。首を持て。楚は終わりだと知らしめる」

 陸睦は頷いて、涙を拭った。天武はそっと腕を解いた。

 迫った楚の援軍は、掲げられた項賴の首に、靜かに馬を止め、崩れ落ちた。

珠羽がいれば、こんな事態には断固ならなかったはずだ。

 ――奴は、どこにいる。

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