楚の猛将虎――牙を捥(も)がれた獅子

           

 ――なにが、いやらしいだ。自分で触れていたのだろうが! やはり、女は勝手だ。好かん。

 天武は宴を締め括る合図を待たずに席を立っている。

 項賴はひたすら飲む。しかも捷紀も飲むのだ。全員まとめて酒の池で溺死しろと天武は厭味を投げつけた……ところで、珠羽がやれやれといった風情で歩いてくるのが見えた。

「叔父は蟒蛇だからな。付き合うのもほどほどにしたほうが無難だろう」

 珠羽の姿を見た天武は、腰の剣を抜こうとした。だが、珠羽には、あのぎらぎらとした気迫はもう、感じられない。牙を捥(も)がれた獅子だ。


「庚氏の事情で、激怒していたのではないのか」

「いつまでも拘っている理由はない。やるべきことができた」

 珠羽の台詞に、天武は物騒な響きを感じたが、やはり何も言えず、その場を引き上げ、用意させた宮殿に足を向けた。

「香桜! いるのであろう」

 背中越しに声を掛けると、がさりと庭の木々が揺れ、香桜が顔を覗かせた。

「よく俺がいると分かりましたね」

「そなたは暇なようだからな。花芯を知らぬか?」

 ふわりと、香桜は木々から舞い降りた。後で呆れた口調で言い放つ。

「俺が知るはずがないでしょう。俺は、翠蝶と天武さまの行く末を見守るのみですよ」

 ――余暇人め。なにを、しゃあしゃあと。

 天武は香桜を睨んでいたが、香桜はすぐに踵を返して見せた。


「花芯は探しておきます。どうぞ、心置きなく、翠蝶華との夜をお過ごしくださいませ」


(翠蝶との夜……。良い響きだ。素晴らしい夜になるであろう)


 ――聞いたそばから、耳の火照りを感じた。生殖の義務の存在しない、好いた女との夜に、天武は密かに愉しみを覚えていた。



12



 一人の靜かな時間が訪れた。翠蝶華が来るまでは、自由だ。

項賴は酒を飲み続けている。面倒な軍事政策の会談の再開はない。武器も確約した以上、やるべき事柄は終わったも同然。と、なれば当然。


――さてと。宮殿の内部はどうしようか。


図面に没頭すると、内部がうるさいので、こっそりと馬の鞍に忍ばせて持って来た銅板を手にする。天空の星の配置を写し取ったところで終わっていた。

北極星の位置には紫微宮。天の河の宮の名がいいだろう。対する宮殿は金牛か。

天武は書刀を手に、にまりとした。


宮殿図面に心をあそばせていると、不思議と落ち着く。更に楚の冷気が心地よい。体内に残った酒が時折うねりを上げている以外は、頗る気分が良い。


(いや、楽しみは後だ。先にやらねばならぬ書簡があったか)


翠蝶華に思い知らさねば、墓に入るまで、卑怯だの、約束を反故にする莫迦王だの言ってくる。遊侠の待遇を変えるためには、天武の決裁が必要だ。これを持って、九卿の内の大理、つまりは法廷が刑罰を軽くできるはずだ。


「さて、劉剥の字(あざな)は、なにであったか」 


だが、その気分は瞬く間に消えてしまった。

天武は大きく開け放たれた入口に秦の武大師の姿を認め、銅板と書簡を手早く牀榻の上に重ねた。


 武大師は、天武が即位した時から、天武に武道を叩き込んだ。憧れて、同じ剣を作って貰い、すべての武道は大師から教わった。名は隗といった。

 秦に生まれ、秦に死す、まことの秦の魂を持った民。

 武大師は剣を外し、天武の前に跪いた。


「恐れながら、申し上げます。少し、魏に傾倒しすぎではないですか。天武さま」

「名は、そなたに名付けて貰ったのだったな……お陰で、趙での名を捨てることができた」


「はぐらかさないでいただきたい。おわかりでしょう。爵位の話です」


逃がさぬような強い口調に、天武は叱られ坊主になり、顔を逸らせた。


「天武さま。今秦の兵に見限られては困るのですぞ。正統なる秦の民を差し置き、捕虜とした兵に将の位を与えては、混乱を招くだけです」


 どうやら、陸睦の白起の話を聞かれたと察した。


秦の猛将の位を魏の陸睦にやる決意に異を唱えている心情が有り有りと見て取れる。

 用意された宮殿の一角は見渡す程に広い。正装の帯を引きずり、窓辺に背中を乗っかからせた。風が背中を冷やしていった。


「では、秦の兵の中で、白起位に相応しい男を推薦せよ。私は陸睦を推薦する」

「分かっておられぬようです。あなたさまは……」


 言いかけて武大師は入口にはためく紅の長裙に眼をやり、天武を見つめ、やがては不愉快になっている天武に気付いた。


天武は少し年をとったような背中に向かって言った。


「つまらぬ諍いで私を怒らせる兵など、不要。私はそなたに魏の少年たちを託したいのだ。魏の兵力は大きい。陸睦のような闊達な将に秦も魏も、関係がないだろうよ」

 武大師は少しだけ微笑んだようだった。


「私は天武さまの大尉でございます。それゆえ、魏の尻の青い餓鬼を育てる義務はありませんね」


 大尉とは、行政三公を指す。丞相・大尉・御史大夫――それぞれ行政・軍事行政・司法監査だ。天武は軍事行政という新しい役職を設置し、政治と軍事の繋がりを持たせた。


 結果、宮殿・皇宮には九卿と三公を中心とした制度が確立しつつある。

 恐妻家の李逵の存在、奔起の存在に加え、武大師の働きは確かに大きい。

 権威と力は認めよう。だが、秦の兵のみ力を与えるとなると、天武の意とずれてくる。


 武大師や、秦の古兵には確かに培っている知識と経験がある。


 ――しかし、魏の陸睦や礫には、若さと無限の未来がある。

 更に後宮の皇宮事務にも変革が起きていた。宦官と武官の角の突き合いだ。


 根を切り落とした宦官の中には、命を懸けている者も多い。気迫が、どうしても違う。それに女官の数も増えた。やはり、宮殿の拡張だ。




 結論を抱えると同時に、待ちかねた翠蝶華が入室してくるのが視界に入った。

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