楚の猛将虎――天上の音色

 歓迎の宴は、項賴の無事を祝う目的と、秦と楚の親善のためにある。

 宴は嫌いだが、自身が主催する宴は嫌いではない。

 天武が選んだ河での宴会は、楚の王族たちの興味を引いた。

 実際に咸陽では、宴会というと、河の畔と相場が決まっている。楚にも類似した河がある。ただし、渭水ではなく、長江の流れを汲む支流の元にであった。

 その名も淮河。長江・黄河に次ぐ第三の大河だ。淮水と呼ばれる河の長さは一〇七八(キロ)。流域面積十七万四千畝(十七万四千平方キロ)。馴染みの深い渭水より僅かばかり規模が大きい。


「水面がきらきらと光って、なんと美しいのでしょう」

「そうですわね、水面も一緒に舞いそうですわ」


 楚の妓女たちが川縁の宴会に思いを馳せたりする。

 天武は秦から運ばせた物資を惜しげなく楚に提供し、代わりに剣と武器を譲り受けた。

 楚の兵糧は、遊牧民族討伐のために、目減りしている。秦、及び黒土で育てた作物は、大いに喜ばれた。宴のための整地が始まると、項賴が一言二言、天武に交わし始めた。


「秦王の発想には、誠に脅かされますな。楚では外で酒など、思いつきもしませんわ」


「我が咸陽に、河や水面は欠かせぬもの。長江と黄河、渭水に泗川。特に、渭水の夜の風景は誠にもって美しいものです。その上、今日は仲秋の満月だ。月宮の常娥も参加されよう月夜。うってつけでしょう」


 宴会では竹を編み込んだ筵を使用する。天武と項賴の前だけに小さな机が置かれ、様々な料理を盛った皿が並び始めた。


「天武さまは、下戸でしたかな」

「いえ。僅かであれば」


 ――天武は項賴の前に出された酒を注ぐための杯を横目で見やった。


 宴の規則の一つに、主催者は、客と同量の酒を必ず飲むという、昔の暇な王が継承した約束がある。つまり、項賴と同じだけの酒を飲まねば、友好は成立しない。

「僅か? 酒は一気に呷るもの。王が逃げ腰では、兵の士気も上がりませぬな」

 紛うかたなき、庚氏の叔父。厭味の種は、まるで同じ。天武はやけっぱちで怒鳴った。



「なみなみと注いで来い!」



 普段は酒を飲まない。父が失踪した後、無二無三に飲まされた薬酒のあまりの不味さに、敬遠していた。そもそも、飲んで莫迦騒ぎなどしている暇があれば、宮殿の図面を……。


 天武が宴を避ける理由は、まだ存在する。正装だ。宴会では、酒の前に食事があり、衣冠をつけるのが習わしだ。しかも、その衣冠を取り付けるのは本来であれば后妃――つまりは奥方だが、天武には正妻はいない。


 秦の部下たちは、こぞって花芯を勧めてきた。花芯は正統な秦の娘であるため、兵の支持率は高い。見てくれでは翠蝶華のほうが艶やかだが、いざとなれば、正統さを重んじる。

 結果として水晶を返し、天武は花芯に、衣冠を預けたのだ。


「天武さま……御髪を」


 声の端々は震えているが、滑舌がいい花芯の声は甘えたなようで、実は芯がある。


「すみません、介添えを」


 衣冠を手に、花芯が頬を染めている。

 仕来りでは、王の衣冠をつけるのは貴妃以上の美人と決まっている。女官が二人、伸びた髪を房に分け、丁寧に結い上げてゆく。普段は下ろしているため、見えない顔が剥き出しになり、天武は視線を下げた。


「貴妃さま、衣冠をお受け取りに」


 秦の歴代の王が被った衣冠は歴史を吸い込んで、輝いている。天武は衣冠が嫌いだ。

 だが、楚の宴会は国交であり、王は王の威厳を見せつけねばならない。

 硝子や玉で作った飾り紐からなる簾が前後に揺れる。花芯は震える手で天武に歩み寄り、衣冠を載せ、形式通りに結い上げた髪に、そっと被せ、簾を垂らした。

 天武の顔を両手に包み込み、花芯は妖艶に微笑む。


 きりりと上げた髪に違和感を感じ、顔を顰めた。持ち上げられすぎな気がする。視界が拓けた前で花芯の朱唇は緩く開き、感嘆の吐息を漏らした。


 いつまでも簪と、解いた紐を握り締めては、ぐにぐに弄っている。


「麗しゅうございます……」

「隣に座れ。曲がりなりとも、お前は貴妃だ。王の傍に寄らず、何とする。早うせんか。舞が始まる」


 花芯は大人しく貴妃服を捌き、天武の隣に正座して、ちらちらと天武ばかりを見ていた。


「私を見るな。舞を見よ。お前の眼に見られると、池の鯉に睨まれた気になる」



「無理でしょう。そのような凛々しい姿を見せつけられて、正常でいられるとでも?」 


 落ち着いた喋りに加え、人を皮肉るような口調。常に策略を巡らせるせいで、どうしても人を嘲る言い方をするのが、軍師の特徴だ。


「捷紀どの」


 短く名を呼ぶと、捷紀は黒髪を揺らし、艶然と微笑んで見せた。花開くようなゆっくりとした笑みに、天武は僅かの間、見とれる。


 ――やはり、この捷紀という男、どことなく香桜に似ている……。


「秦の王は髪を上げると、凛々しさが増しますね。時に貴妃さま。お口汚しですが」

 軍師の姿をした捷紀が、小さな皿に薄荷仙桃を載せて、花芯に差し出した。


「まあ! 真っ白い桃!」

「薄荷仙桃の氷菓ですよ。楚で人気がある薄荷仙桃を凍りかけにしたものです。ひんやりとして美味ですよ。こちらは金木犀の……」


 ――舞が始まるというに。薄荷仙桃ごときで喜ぶか。安い貴妃だ。


 花芯は捷紀が次々に差し出す楚の菓子に眼を奪われていたが、やがて大きな、しゃらん! という鈴の音に、正面を向いた。



               *



 宴の進行は、基本宮妓たちが行う。一番手は翠蝶華の剣舞だ。


 夕暮れの淮河の漣に合わせて、水面と一体化した妓女が舞う姿は、艶やか以外の何物でもない。どうやっているのか、爪先を軽く蹴るだけで、天女の飛翔、軽やかに回転して見せた。一頻り回った後、立てかけてあった剣を両手で掴み、ゆっくりと足を持ち上げ、剣を振り回す。戦いを表現しているのか、刃に手を添え、竦ませるような眼力で、両の眼を光らせた。


 両手に掴んだ剣を交差させ、二本の剣の向こうから、梟の如く鋭い眼を光らせる。いつもより眼の周りを黒く染めているせいで、真っ白の表情に更に、眼が大きく見える。


 項賴が感心の吐息をつき、天武に話しかける。


「随分と、剣を命あるように扱う宮妓ですな……勇ましい」


「元漢の宮妓です。理由があって、秦の後宮におりますゆえ。漢は矮小でも、剣妓が秀逸ですので、ああいった剣舞があると、私も翠蝶華で知りました」


「なるほど。国を征服しては、芸術を手に入れるわけですかな。随分と高尚な娯楽ですな」


 ――食えぬジジイだ。


 天武は項賴の厭味に、顔色を変えず心を律して、微笑みを浮かべた。

 翠蝶華は剣舞用か、敢えて腰つきを見せるような貴妃服を着用している。

 ちら、と翠蝶華が天武を見やった。腕を伸ばし、剣を振り回しながら、ゆっくりと近づく。ふと、股がひやりとした。ぞくぞくと背中に快感が駆け上がる。

 ぎくりとして見れば、花芯が薄荷仙桃を天武の股に落とした。ひくんと震えた下半身をしれっと隠し、天武は手短に伝える。


「むやみに冷やす部分ではない」

「手が滑ったの」


 うっとりと翠蝶華を見惚れると、また花芯が薄荷を天武の足に落とした。


 ――またか。


「ほら。全部すっかり口に入れてしまえ。口を開け」


 一つを抓んで、口元に近づける。素早く花芯の口内に放り込むと、たちまち頬がぷっくりと膨らんだ。ころころと転がす花芯の瞳が潤んでいる。


(これで、集中できるな)


 翠蝶華は今度は足を開き、戦いの如く剣を振るっている。


 右腕をまっすぐに伸ばし、切っ先を天武に向け、視線が合うと踵を返した。


 ――貴方は簡単に人を殺せますわ。劉剥を見逃した理由が私への想いというならば、頭を下げねばと思った次第――


 舞の中から、翠蝶華の言葉が聞こえた気がする。そうだ、殺せる。殺せたのだ。

 劉剥の首を掻き斬って、翠蝶華の眼の前に投げてやるつもりだった。


 ――それをしなかったのは、翠蝶華が泣くからだ。心のどこかで、翠蝶華のためにも、生きていて欲しいと願っていた! 天子の気は消さねばならない。なのに、見逃した。


 翠蝶華は、剣を下ろして深く頭を下げ、項賴の絶賛を買って舞台を降りた。

 総勢四十万の大軍を持つ楚の軍師、叡項賴は、兵力と文化を並列させる。宴を開いたのも、秦の文化を披露する目的だけではない。迂闊に攻め込まれれば、国は疲弊する。

 誰しも、戦いなど望まない。その平和を願う振りして、互いに領土を奪い合うのが戦争だ。余裕の見せ合い、支配者の角の突き合いだ。



 翠蝶華は宮妓のたしなみの、楚の王族たちに酌をして廻り、天武の元にもやってきた。


 とくとくと酒を注ぎ、取り戻した気丈な瞳を凜と輝かせた。


「先ほどの話は、どうした」と意地悪く、聞いてみる。翠蝶華は頬を赤らめたが、引き締まった唇を動かし、まっすぐに天武を見据えている。


「約束は、果たすわ。貴方と違いますのよ」


 微笑みながら白酒を振る舞い、裾を捌いて去って行った。


「何を笑っておるのです? 秦の王」


 捷紀が聞いたが、天武は理由を口にはしなかった。


 また、足に薄荷仙桃が転がって来た。指で弾いて、花芯の膨れた頬にぶつけてやると、花芯は席を立ってしまった。


「秦の王は、女心が分からないと見えますね」


 相変わらず、捷紀の言い方は癪だ。

 舞は優雅な笛の音に彩られ始める。香桜だ。黒塗りの横笛は、空が拡がるような、大胆で琴線のある音を奏でている。


 しばし、その場すべての兵も、王も、貴妃も、生きるものすべてが耳を貸した。


 ――やはり香桜の笛は美しい。

 燕の兵士が朽ちた死体の山に座り、悠々と微笑みながら奏していた姿は、まるで死に神だったが、今なら分かる。香桜は、無残に散った兵を弔っていた。

 骸の山を築くものと、慈しみで包むもの。


「なんという……天上の音色」


 少し離れた場所で、警護の任に就いている珠羽も、長剣を手に動きを止めている様子が見える。笛の音は空を駆け上がり、楚の仲秋の夜を彩るのだった。

 香桜は笛を口元に当て、龍の瞳と同じ、金色の髪を夜風に任せた。

 遠く音は歴史を駆け上がり、空に昇って消えてゆく。


 ふと見れば、翠蝶華も感動で声を出せず、ただ、香桜を見つめていた。花芯の姿は見えない。指先を触れさせても、翠蝶華は呆然と香桜を見ているだけだった。


 ――約束は果たすわ。


(では、果たして貰おうではないか)


「素晴らしい音ですわね」


 再び歩み寄った翠蝶華はしっかりと天武の手を握り締めていた。淮河の漣が合唱の如く加わって、自然の美しさを謳歌する。香桜の横笛は、空に伸びて、楚の帝都に響き渡っていた。

 項賴は大いに喜び、香桜は小さく会釈をして、花場を去る。



 ――翠蝶華はまだ天武の手をしっかりと握り締めていた。牀榻であれば、細い腕を引き、そのまま寝台に押し倒すところだが……天武は視線を翠蝶華の肉体に走らせる。


 豊満とは言えない。だが、痩せた躰の線は美しく、彫刻を思い出させる。それよりも、腰つきだ。桃腰というに相応しい細腰は、秦の美女でも、そうそう多くはいない。


 眼の前で、翠蝶華が唇をへの字にした。


「まあ、いやらしいわ。お離しあそばせ」



 手に気付いた翠蝶華が無慈悲にも天武の手をぴしゃりと叩いた――。

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