楚の猛将虎――青は、之を藍より取りて、藍より青く、氷は、水之を為し――君子博く学びて日に己を参省せば、則ち智明らかにして行ひに過ち無し

 翠蝶華が逃げて行った後、天武は苦虫を噛み潰したような表情で、楚の回廊を進んでいた。対面するなり、香桜は雅な声で、天武に告げた。


「秦軍二万。確かに連れてまいりましたが」


 天武は更に、不機嫌虫を噛み潰した。

 時機が良すぎた。香桜が翠蝶華とのやり取りを覗いていた事実に気付いたらしい。


「そなたは、いつもいつも! どこで何をしておるのだ!」


 香桜は、しれっと話題を変えてみた。


「軍を率いるのは、素質が要りますね。兵が喧嘩したので、仲裁に入りました」


 天武は、顔の筋肉を緩めて見せた。単純に王の自覚が時折ふっと剽軽な態度を生むのが愁天武という男。


「山麓に待機させましたが……さては、俺を試しましたね」


 天武はにやりと薄笑いを浮かべ、表情を鋼に戻した。


「軍師の才がある。楚の項賴に付き従う男と、そなたの雰囲気が似ていた……見極めて、軍師の爵位を与えようと思うておる」


「武大師さまがおられますゆえ。俺はしがない笛吹きですよ。小火くらいにしか役立ちませんよ」


 武大師か……と天武は呟き、小火? と首を傾げた。


「僅かばかりですが、咸陽承后殿が燃えました。官吏・女官たちが消火に当たり、事なきを得ましたので、心配は無用かと」


 まさか遥媛公主山君が、香桜の話を真に受けて、奔起の尻に本当に天火を灯したとは言えない。しかし、天武は心底ほっとしたようだった。



「無事であれば、それで良い。私が欲しいのは、新しい風だ」



 ――つまりは、天武に従い、命令を遂行するための内部派閥を考えている。忙しい男だ。


「古き風は、知恵をもたらすと言います」

「一緒に退廃ももたらすわ。見よ、香桜」


 天武はさも導くかの如く、凍った山脈地帯に向けて、片手を上げて見せた。

 氷龍?――とうに知っている。


 そもそも、遊牧民族に荒らされ続けた楚の地を再建したのは、華仙人の内の一人だ。


 氷龍の仙人、白龍公主芙君。男でありながら、公主の称号を気に入る、少々変わり種の仙人であり、氷術に長けている。地上では、捷紀と名乗る、楚に一役を買っている怠慢仙人だ。


 天武は子供の如く、眼を輝かせた。


「凄いぞ! 山が一瞬で凍る。そのような書物が趙にあった……なにであったか」

 天武が思い出そうとしているのは、趙の書物の『荀子』という。


「『青は、之を藍より取りて、藍より青く、氷は、水之を為し――君子博く学びて日に己を参省せば、則ち智明らかにして行ひに過ち無し』天武さまは後篇にご留意すべきですね」


 香桜の厭味を理解した天武は、むっと眉を吊り上げた。


 ――君子は幅広く学んで一日に我が身を何度も振り返るならば、物事に通じ行動を誤らなくなるものであるーー。


(王が行動を誤れば、多大な損害が出ると言ってるんだ、俺は)


 翠蝶華も、庚氏も、遥媛公主すら口にする。上に立つ以上は、弱き者を護れと。

 ――まあ、無理だろう。天武の人嫌いは、並大抵ではない。


「ふん。そなたの口調は、笛のように流暢だな。儒教くずれか」


 劉剥には、酒屋……今度は儒教くずれと来たか。

 だが古来より、神は個人の印象で、存在も、その姿も変わるもの。神とは得てして不可解なものでいい。


 香桜は手を胸に当て、上目遣いで天武を見やった。


「お言葉、胸に」

「兵の統率には、そなたのような屁理屈も必要と思うがな」


 香桜に心にもない褒めか貶しかの言葉を言うと、天武はいつもの足音ですたすたと眼の前を去って行った。

 花芯の部屋ではない。部屋で宮殿の図面でも引こうというのだ。

 天武は、大層でかい宮殿を作ろうとしている。あまねく星々の如く、宮殿全部を繋ごうと計画している。


(あの男……地上の統一なんぞ、超越しているな)


 ただ趙が憎いのだ。逃げ回った地を、一刻も早く自分の傘下に置きたいだけだ。

 ついでに言えば、今夜、天武は翠蝶華を夜伽の相手に勝手に命じている。

 香桜は耳に揺れる翡翠を何度か撫でて、にやりとした。上唇が乾いているのに気付き、舌を這わせる。仕草だけなら、蛟と同じだ。


 先ほどの翠蝶華と天武の抱擁に驚き、場を離れた貴妃は、おそらく部屋で拗ねているに違いない。天武は何だかんだ言うが、結局のところ花芯を一番安全な場所に置きたいのだ。


(大切にされねば困る。この、龍仙一香の妻たる女だからな……何かあれば、龍で……)


 ――婚活をされている場合では……との遥媛公主の言葉が脳裏を過ぎり、香桜は一人で笑った。婚活……なるほど。遥媛公主の言い回しは正しい。


 遥媛公主は知らない。香桜が、悠久の時間、どれほどの孤独に苛まれて来たのかを。


 更にこの先、独りで生きる辛さと、孤独感を。

 香桜は夜空を振り仰いだ。秋の夜空は好きだと思う。少し冷えた冬の始まりの空気は、水滴の如くきらきらと光り、頬を攫ってゆこうとする。


 苦痛の生が短い人が羨ましい。すぐに終わる。哀しみも、苦しみも、仙人からすれば、ほんの一瞬。それでも、愛した記憶だけは残る。


 過去、どの女も、強い龍気には耐えられず、やがては死して行った。


 抱けば体内で龍の因子が暴れ回り、発狂に導く。見ていられず、情愛の中で手を下した記憶もある。


 だが、花芯なら。恐らく、天女の、龍族の末裔。

 であれば、花芯には龍仙と交わる素質がある。


 龍族に現在雌はいない。だからこそ、龍は孤高とされ、崇め奉られている。

 天武が、翠蝶華に夢中になれば、花芯は孤独になり、心はがら空きになる。

 そのためだけに、焚きつけたと知った翠蝶華は烈火の如く怒るのだろうが、知ったことかと、香桜は眼を細め、口角を上げて見せた。

 ふと、氷の気配を感じ、香桜は横目で捷紀を視認する。


「説教は聞かぬぞ。白龍公主芙君」



 呼ばれた男は肩を竦め、ふと訊いた。


「貴方さまが進軍させた秦の二万の兵は、どこに隠したのです?」



 聞いた香桜は天帝の笑みで、ゆっくりと、嗤った――。

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