楚の猛将虎――北極星の下で
ひくりと震える肩を押さえ、天武は土壁に背を預けて、ぼんやりと空を見上げた。
北極星が変わらずに輝いている真下。腕に飛び込ませた格好の翠蝶華を見下ろす。
「言っている意味が理解できぬ」
翠蝶華の瞳が切なげに月を映している。三日月は瞳の中で、歪んで、落ちた。
「貴方は簡単に人を殺す。劉剥を見逃した理由が私への想いというならば、頭を下げねばと思った次第よ」
胸が、きしきしと痛む。翠蝶華は、劉剥のために、頭を下げたのだ。
――翠蝶華を思い通りにしたいなどとは思ってはいない。だからこそ、翠蝶華の純粋さは神経をささくれ立たせる。
天武は静かに問うた。
「そこまでする、願いは、何だ」
「陵墓の建設の中止を! 王がなさることではありませんわ」
「では、そなたは毎日毎日、残虐な処刑を施行せよと申すか」
出す言葉が見つからない翠蝶華に、天武は続けた。
「元々は、私が即位した際の貴族からの嫌がらせだ。だが、陵墓建設があるからこそ、罪人は人知れず消えてゆく。なくなれば、毎日、死刑を決行せねばなるまいよ。そなたが言いたいことは違うのであろう?」
翠蝶華は涙で濡れた目で天武を振り仰ぎ、次の言葉を待っているようだった。
「李劉剥を陵墓建設地から外し、人夫を送る職務に従事させる。だが、恐らく今のほうが良かったと、嘆くのだろうよ。そうそう天子の気で咸陽を脅かされても困る。命は保障される。ただし条件はあるがな」
脳裏に描いた言葉を、何度も伝える前に反芻しては、天武は乾いた心を感じる。劉剥のためになら、頭を下げるのか! と謂わば食いつきたくなる。
いや、多分。翠蝶華の態度は愛するものとして、正しいのだ。
ただ、正しすぎて、吐き気がする。
返答の遅れに、翠蝶華が急かしてくる。翠蝶華はどこまでも、男を意地悪くさせる女だ。強気であればあるほど、堕としてやりたくなる。
「聞きたいか?」
息を潜める。まるで獲物を狙う獣のようだと自負しながら、天武は囁き、声を低め、翠蝶華にゆっくりと告げた。
「そなたが、今夜、私の褥に来ることだ」
一瞬、何を言われているのか分からなかったらしい。翠蝶華は視線を泳がせた後で、焦ったように言い返し始めた。
「花芯さま、庚氏さま……殷徳さま、遥媛公主さま……皆様いらっしゃるのに! 色情狂にも程が」
「ここは、楚。後宮はもちろん、宦官どもはおらぬ。無制限で、そなたを夜の間中、愛してやることが可能」
「む、無制限……っ? さっきから耳を疑う言葉ばかり!」
天武は立ち上がると、まだ動転している様子の翠蝶華の腕を取り、立ち上がらせてやった。紅の耳飾を指で弾いてみるが、翠蝶華は抵抗せず、呆然と天武を見上げていた。
(貴妃になれと言うより良かったようだな。ようやく、勝ったか……)
「宴の舞、楽しみにしておるぞ。そなた次第では、漢と劉剥は護られるであろう。そうそう、私の頬を叩き、首を掠らせた礼は、しっかりと躰で払え」
「躰で……やはり、私を抱……そう……」
――気丈な翠蝶華を落ち込ませるのは、何やら楽しい。勝利は目前。だが、翠蝶華は更に天武に打撃を与えた。
「先に申し上げておきますわね。私は、劉剥との夜を既に迎えていますわ。嫉妬に狂った王がどんな愛し方をなさるのかしら! もう、嫌……」
――嫉妬だと? また嫌な言葉を遠慮会釈なく、置いていった。
翠蝶華は、瑞々しい妓女だ。従って数多の男を知っていて当然と諦めていた。
しかし、先日の天武の肌を見た反応は、生娘そのものだったのだ。
同じ生娘でも、面倒くさい花芯と違い、翠蝶華には、征服させるという男特有の楽しみがありそうだと、機会が訪れるのを、密かに愉しみにさえしていた。
――それが。既に劉剥との夜を迎えている? 生娘ではないではないか。
(やはり、陵墓で朽ちてもらうか……秦の王が嫉妬? 莫迦を言っていろ。やはり殺しておけば良かった)
そんな物騒な後悔を思い浮かべ、天武は瞬く間に不機嫌になった。
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