楚の猛将虎――過酷な人生、艶やかな蝶

「天武さま! 魏奴と何をお話しに」


 秦の古兵は新参兵を亡命した故郷で呼び、遊牧民族を現す奴をつけて嘲る。秦の民との違いを呼び名で思い知らせているのだ。


「ここは楚だ。魏奴などと口にするのではない! 散れ!」


 叩きつける銅剣がないので、うっかり花芯の水晶を叩きつけそうになる。

 まだこの兵舎が秦軍にのみ許された場所だから良いものの。いまいち、銅剣がないと、指示に迫力が出ない。


(やはり、大剣……いや、私の体格からゆくと、長剣か。半月刀も捨てがたいな)


 武器職人が集まる兵器工場に足を向けようとして、眼を真横に走らせ、足を止めた。

 近づいてくる足音を耳で捉えた。


 分かる。ととん、と爪先で歩く歩き方は、武道を嗜んでいるものの癖だ。すぐ向こうの回廊を渡っている。もうじき、姿が見える。

 曲がり角で紅の長衣が翻るのを見るなり、呼吸が止まりそうになった。


 ――翠蝶華が、楚に来ている。では、香桜も二万の秦軍を連れているはずだ。



 不意に翠蝶華は剣を両手に持ち、突進してきた。

「翠蝶華! なにゆえ」

 翠蝶華は涙目で剣を震った。剣術ではなく、剣舞だ。

 細い腕が、丁寧に弧を描き、星を輝かせる如く、刀身が光っている。月を受け止めた瞬間、剣は返された。

どうすれば剣が美しく光るかを知り尽くしている動きを早め、両腕を交差させると、天武に突進した。


 ――焦る必要はない。女の腕力だ。片手で止められる。


 安直に思ったが、ふと、翠蝶華の勢いから、既視感を覚えた。

突進してきた翠蝶華と、華陰で戦いを挑んで来た男の残像が重なる。泥塗れで、瞳を熱く滾らせ、突進して来た男の顔と、涙目の翠蝶華の表情。


 ――李劉剥! 



「覚悟なさい! 謀ってばかりの秦の王!」


 ぱらぱらと削れた土壁が肩に落ちた。


「私は戦場では油断せぬ。しかし、数いる武将の中で、私の首を挟めるのは、そなただけだろう。油断したわ……」


 涙目の翠蝶華は両手で剣を握りしめたまま、天武の至近距離にいた。

 月は高い。仲秋の満月手前だ。楚に来て、早くも十の夜を迎えたか――。

 翠蝶華はなぜか無言で、腕を動かしていた。


「何をしておる?」


 翠蝶華はいつしか涙目になっていた。


「天武、抜けな……っ」

「……貸せ」


 翠蝶華は、片足を壁に上げ、上半身に力を漲らせ、全力で剣を引き抜こうと奮闘している。


「結構ですわ!……ん、んん……っ」


 天武は意地を張る女の手に、手を添える。

 どんな突き方をしたのか、二人がかりで剣はようやく壁から引き抜かれ、離れた。ふう、と翠蝶華は額を拭って、二本の剣を揃え持って、背中を向けた。耳が赤い。


「私の剣舞が見たかったがために、こんな辺鄙な場所に呼び寄せるなんて!」


 ふと、回廊の人が少なくて良かったと、天武は安堵した。

 向き直り、翠蝶華は扇で口元を隠し、しれっと目線を外してみせた。視線を感じ、首に何気に手を当てた天武は、呆然と、付着した血液を眺めた。

 眉が上がったのを見た翠蝶華が、わたわたと言い訳を始める。


「き、切るつもりはなかったのよ? 本当よ? 脅しのつもりで」


 剣を仕舞おうとしたところで、天武は剣に眼を釘付けにした。

 鞘に納めかけた細腕に手を伸ばして止める。


「翠蝶……そなたの使う剣は、なんだ」

「え? あ、健身剣の銅剣。漢の父から譲り受けましたの」


 強く腕を引いたせいで、翠蝶華は僅かに怯えている。普段であれば反応を楽しく眺めるところだが、今は違った。ともかく情報が欲しくて、喋りが少しだけ性急になった。

 翠蝶華の剣を持ち上げ、間近で見て、確信した。

 反り返った剣に、大きな鍔。


 ――華陰で折損させた剣と、造りは同じだ。考えてみれば、先ほどの剣の構えも同じ剣法であった気がする。

 漢は剣が優れていると言うが、ここまでとは。秦には人を突き刺すような剣法はない。


「銅を流し込んでいたのか。そなたの想い人が、同じ剣で戦いを挑んで来た。元気に生きておったぞ」


 近くにある翠蝶華の眼が瞬きを繰り返した。


「劉剥は生き存えた。そなたには分からぬだろうが、咸陽の遠くの空に、天子の気が渦巻き始め金の龍が空を駆け上っている。私は約束を護ったと証明になる」


翠蝶華に問いかけると、翠蝶華は靜かに首を振って見せた。

 そそ、そそ……気がつけば翠蝶華の足は、天武から離れようと、少しずつ下がっている。



「なぜ離れる」



 翠蝶華は両手を合わせ、指先を震わせて、後ずさりして見せた。


「なぜ離れるのかと聞いておる。そなたらしくもない」

「香桜さまが、望むのは、きみを貴妃にし、思う存分に抱くことと……」


 脱力した。――また莫迦げた戯言を。あの男は、誠の余暇人か。



 言い返そうとしたところで、水晶が転がった。すかさず、ほっそりした手が拾い上げるのを見た。花芯だった。


 翠蝶華が慌てて離れるも、花芯は無言で身を翻し、走り去ってしまった。


「あ……ご、誤解ですわ!貴妃さま! 追いかけないと!」

「いい。放置しておけ。勘違いなら勝手にさせておけばいい。それより、そなた。いつから私の名を普通に呼んでいる。否定したのではなかったか」


 翠蝶華は見るみる頬を赤くした。手を伸ばし、柔らかな二の腕を掴む。ぴくんと頬を震わせ、桃花の朱唇を開く翠蝶華に、思わず笑みと本心がこぼれた。


「はは、野心家は嫌いではないと、そなた言ったな。劉剥は生かしてやった。――まァ、じっくり考えるとするか」


 嬉しさを現した途端、頬に痛みが走った。


 じんじんとする頬を晒し、天武は憮然として、翠蝶華を睨み据えた。素早く頬を叩かれたのだ。どうしてやろうかと考えた眼の前で、翠蝶華の涙が零れ始める。


「莫迦」


 震える手を掲げたまま、翠蝶華は俯いた。


「ご存じないのですわね。あの子、何度も見かけましたわ。一度目は、殷徳さまの宮殿、二度目は遥媛公主さまの宮殿、三度目は庚氏さまの宮殿……天武が夜を貴妃と過ごす度に、花芯妃さまは部屋の近くにいるのですわ。秦の王は、愛情も分かりませんのね」


 分かるわけがない。質という立場で、いつ殺されてもおかしくない状況で、天武は産声を上げている。近年では、父は助けはせず、母は愛妾との肉欲生活を選び、天武を犠牲にしたのだ。


 秦に来るまでは、天武は趙の王族に石を投げられる有様だった。

秦で待っていたのは、父に対しての処遇だった。

 こんな過酷な人生のどこに機会があったと言うのか。


「知らぬよ。人と人の間に、そのようなまやかしが横たわっていることなど、私には関係がない話だ」


 どん、と胸板が痛んだ。翠蝶華が両手を拳にして、叩いたのだ。

 翠蝶華は天武の胸に頬を預け、震える声で口にした。



「劉剥を生かしてくれて、感謝してるわ。天武」

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