楚の猛将虎――輝かしい未来

 遠くの山々が、再び凍り始める。幾度となく目にした光景だ。

 ――常に死を覚悟する男の気も知らぬ、莫迦貴妃が多すぎる。

 切なげに遠くを見る天武の瞳に、溶けた氷が映っては、消えて行った。

                   *

 頭痛の種の花芯ではなく、視線を投げかけた陸睦の様子を見に、兵舎を覗き、やはり厩舎に足を運んだ。

 花芯の監視を命じていたはずの陸睦が馬の手入れをしている姿に、一抹の不安を感じた。見れば、陸睦の手に、先ほどは見当たらなかった包帯が巻かれているのに気付く。

 鞍を外されて寛いだ馬たちが、じろじろと天武を見ようと首を伸ばしてきた。

「どうした……その手の甲」

 陸睦が答えられない心情を察し、天武はやにわに詰問した。

「今度は何をしたのだ、あの跳ねっ返りは」

「水晶を返せと、引っかかれました。でも、まだ返してないです! 命を懸けて護ります」

「つまらぬものに命を懸けるな。何だ、急に」

「貴妃さまは「天武さまは約束を果たしてくれない!」と口にしてましたが」

 約束? 天武は考え込み、あ、と声を上げた。つまらぬ宴のいざこざで忘れていたが、ちゃんと貴妃の振る舞いができたら返す約束があったのだった……。

「水晶を寄越せ。花芯に返す」

 陸睦は驚いたが、厩舎に飛び込んで、藁のついた水晶を差し出した。磨かれた珠は夕日を反射させて、橙色に発光していた。得も言われぬ煌めきに、天武は眼を細くする。

「美しいものだな……水晶というものは」

 恍惚と呟く前で、陸睦は何やら言いたげに爪先で地面を突いていた。

 不意に見えぬ片眼を向けられて、天武は僅かに躰を震わせた。陸睦の片眼は泥に塗れ、潰れたのだ。

 慣老の率いる治療班が出した答は失明だった。

 直後から陸睦の口数は減り、天武に怯え、戦く回数も一緒に減っている。夜は密かに訓練しては、片目の自身に落胆している姿を、天武は知っていた。

 魏から逃げ延びて、秦の軍に下ったその上で、負荷を背負ったのだ。会談の間、陸睦の視線はずっと、天武に注がれていた。

「天武さま。どうして、俺を会談に呼ばないんですか! 俺だったら、天武さまをもっと強く見せて差し上げられる! 武大師は、傍に置くべきじゃないんです! 秦の皆様は……」

「私を失脚させようとしていると? 何を今更という感じだがな」

 声が、さすがに沈んだ。尽力するが、老兵に経験では勝てない。項賴と向き合って、余計に感じる。新しい風を吹かそうにも、未熟さが邪魔をするのだという歴然たる事実を。

 天武は陸睦の肩を押さえようとして、違和感を感じた。いつしか、陸睦は天武よりも背丈が高くなっていた。

「おまえはいい武将になる。いずれ、爵位を与えよう。だが、今はまだ早い。今のうちに経験を積むがいい。花芯の様子を見て来る」

「俺は、天武さまの片眼です! それが俺の誇りですよ」

 陸睦の言葉に、天武は足を止め、ゆっくりと頷いた。

 ――今はほんの数騎の兵を率いているが、陸睦はいずれ数十万の兵を率い、戦いの先陣を切るであろう。

 元服を迎えさせた後で爵位を上げた呼び名は、白起。

 過去、秦に存在した常勝の将の名は、そのまま爵位として生き続けている――。

 勇ましく馬と一体化し、敵陣を掻き散らす。鬨の声を上げ、命を惜しまず、秦の滴と消える。もちろん、負けなどはない。

 見えぬ未来を思うと、俄に胸が躍る想いだ。不思議と天武には、白起となった陸睦の輝かしい未来が予想できた。

 憎き趙すらも超え、秦は必ず統一を成し遂げ、太陽よりも高く駆け上るであろう――と。

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