楚の猛将虎――捨てた名前
天武は再三に亘って勧められる酒を軽く断ると、身を乗り出させた。
「こちらの国は、大層、潤っておるようで。捷紀どのにも珍しい武器を見せてもらい、感服した。今後の大戦に役立てることができそうだ」
「大戦……物騒な言葉ですな」
天武は眼を光らせながら、告げた。
「いえ、地方豪族を討ちにゆく話だが?」
「そのついでに、罪のない、華陰の都を焼いたわけですかな?」
話の最中に、兵が俄にざわめいた。
項賴がすぐさま立ち上がる。一番に珠羽が駆け出し、場は少し騒然となった。
「たま、じいじ……」
白い着物を着た、子供がうろついている。
「これはこれは王! このような場所に連れて来たのは、誰か!」
――王? 御年五つの楚王か?
珠羽の腕から逃げ、子供は会談の正面に歩いて来た。末恐ろしい子供だ。それとも、生意気にも、楚の王として会談に参加するつもりか……。
天武は顔を歪めて項賴を見やる。まさかと思うが、楚の実権は、この男の手にあるのか?
子供の顔を見て、ぎくりとなった。――庚氏に似ている……。
硬直する天武の前で、子供は指を銜えたまま首を傾げた。
「もう亡くなりましたが、これの母は、庚氏の妹です。珠羽に大層懐いておるのですわ。我ら叡一族は、王であった一派を殺しました。名を翔覧。しかし、子供に罪はない。珠羽、王を部屋に連れ申せ」
「さあ、王。参りましょう。あちらで珠羽がお相手しますぞ」
大きな珠羽に抱かれた子供は、大人しくなった。
「この国の政治は……王は……」
「楚には今後、王は不要」
驚く回答だった。天武はもう一度はっきり聞き返してみる。王は不要? いや、要るだろう。では、誰が統一し、導けば良いのだ。誰かが、歴史の塵芥になるからこそ……。
「私には、そうは思えないが。では、誰が迷走する人民を導く。私は王の立場だ。いや、そうでなくとも、率いるべく存在したと思う」
項賴は椀を手にし、しっかりと返答した。
「民衆すべてが王であれば良い。そのために、私はこの翔覧(しょうらん)を王としているのです」
「なんだと……廻りの大人の勝手で子供を振り回すか」
項賴の目が鋭くなった。
「まるで、ご自分の状況の如く言いますな。そう言えば、秦の王は以前、趙の邯鄲におられたとか……幼少に険しい山麓で育てば山崩れの戦略など、楽勝でしょうな」
華陰での山麓作戦。調べ上げられている。
天武は悔しくも、靜かに頷くしかなかった。荊檻であった幼少の地獄が眼の前に迫ってきて、呼吸が狭まり、苦しい。
「……母が趙の生まれ……だから、だ……」
「わが楚と趙は頗る良い関係でありますゆえ、懐かしいでありましょう」
(地獄が懐かしいものか!)
できることならば、斬り捨て、自分の手で屠りたい。
ざく、ざく……天武の脳裏に、死体を切り刻む音が響いた。動揺を武大師に諫められ、軽く指を噛んだ。
――気に入らぬ。私を揺さぶる……この男。
「秦の王は気が昂ぶっておられる。酒を」
「白湯で結構!」
乱暴に言い返し、天武はまた、唇を噛んだ。
「ふん、それは弱小な国の逃げ腰の言い分だろう。まあいい。喧嘩をしに来たわけでもない。秦の武器職人を連れて来た。楚の研磨術を学ぶと共に、学術なども見せて貰いたい。庚氏には宮を一つ与え、自由にさせておるぞ」
支配する男同士の視線がかち合い、項賴と天武は、力一杯に睨み合い、口を開いたのは、項賴だった。
「武器や書庫の管理は、すべてこの捷紀が引き受けている。滞在の間は、好きに見て回れば宜しいでしょう。今夜は、私の帰還祝いの宴があります。是非、秦の芸術も見せてもらいたいものだが」
――来ると思った。今頃は、香桜が二万の秦軍を連れ、進んでいるはずだ。隠してはいるが、香桜には軍師の才がある。この際、実力を見極めてやる目的もあった。
「そう言うと思い、一流の宮妓を呼んでいる。かの笛の音を聞けば、そなたの日々の重責も多少は解放されるだろうて。次いで後宮で人気の剣舞宮妓もおる。大層艶やかに場を彩るであろう。名を香桜、翠蝶華と言う。本名ではないらしいがな」
黙って聞いていた捷紀が艶然と微笑んだ。
「そう言えば、天武さまも、本来は名が違うとか」
天武の神経が琴線の如く張り詰めた刻、どおん、と太鼓が鳴った。どうやら、親善会談と云う名の腹の探り合いは、終了で良いらしい。
去り際に、項賴が告げた。
「秦の王、楚には虎と氷龍がおりますぞ」
振り返って、ぎろりと眼を光らせてやった。
「この秦の王はひ弱な虎と違い、天龍の牙を剥くぞ」
項賴は、言い返しはしなかった。
楚軍・秦軍が囲みを解き始め、空けられた花道には陸睦の姿が見える。
退出の途中、珠羽にすれ違った。珠羽は性懲りもなく、大剣を抜いて切っ先を向けた。
「今の私は丸腰だ。武人の恥を知れ」
「秦の王。迷走する人民を導くに、王が必要と言ったな。それは、誠か」
天武は足を止め、頷いた。
項賴に揺るがされ、戦う牙を捥がれてしまった。立て直さねば……。一瞬だけ目線が交わったが、どちらともなく、視線を外す。
(疲れた……花芯をからかいにゆくか)
思って頭を小突く。
――自ら頭痛の種を増やしてどうする、どうかしているぞ……政。
一度だけ、自分の趙での捨て名を心で呼んだ。
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