楚の猛将虎――叡項賴との酒席で
鎧を脱いで寛いだ顔は、油断をしない大人の男の顔だ。
項賴が天武と接見を果たしたのは、翌々日であった。
楚の王のおわす宮城の近くに構えた広場は、珠羽の率いる楚軍が四方を固め、物々しい雰囲気に包まれていた。
――岳樺……。
確か、丸焼けになった跡地に率先して生える樹木だ。
楚もまた、何度も遊牧民族の脅威に晒され続けた。
凍った山に救われ、ようやく安寧の地と時を得た証拠がここにある。
元は蛮の名を抱く遊牧民族が、高貴を持って国を建国したのが、そもそもの始まり。
王朝の流れはないものの、文化は常に斬新だ。
項賴は、紅葉が美しいと、凍りかけた山々をのんびりと眺めている。
凍り付いた氷山に覆い被さり、茂る紅葉と、岳樺の白皮は見事に映えていた。
兵たちは剣を捧げ持ち、東南に楚軍、西東に秦軍が睨み合い、配列された。
氷龍の悪戯なる険しい自然の風が広場を苛む。
普段は兵の訓練場らしく、広場には剣妓の練習用の束ねた藁があった。
昭関での、楚兵の一糸乱れぬ統率力を思い出す。
天武はふと、眼を閉じる。――ふと、燕の知将が脳裏に浮かぶ。
(欲しかったのだ、おまえを、秦に)
双頭の虎を一頭にする。更に楚の勢力を殺ぐとの考えは白紙。庚氏を挟んでしまっては、珠羽との和解は難しい。
深秋の空の下、妓女たちによる、胡弓の音が響いている。
会談開始の太鼓が鳴った。楚の象徴でもある、巨大な太鼓である――
*
「甥と一戦、やり合ったようですな」
雅な旋律の中、項賴がまず、口火を切り、珠羽を見、可笑しそうに躰を揺すった。
項賴の横には、やはり捷紀、天武の横には武大師がそれぞれ胡座を掻き、向かい合った。
むろん、花芯を出すなと陸睦にきつく警備を命じている。
「覚えておりませんかな。貴方さまが即位した折に、生意気な子供が声を上げまして。まあ、私が慌てて口を押さえたのですが……お父上の足元に貴方は隠れておったかな」
「私の即位時の話ですか」
天武はふと、幼少の凱旋模様を思い浮かべた。
燕の督亢の全土の奪取。父は数度の戦いを経ても、手にはできず、無念の内に、手を引いた。燕の最後の戦いからは、かれこれもう五年以上が経つ。即位からは十年以上。
趙から従いてきた慣老も、さすがに老いぼれるわけだ。
天武は、逃亡した父が無念と記した事柄を一つ一つ、入念に調べ上げた。
全土の統一、貨幣の新制、武器の修繕と新たな物質の発見、流行病の薬……巨大陵墓の建設に、世界を模した宮殿設計図案――…
残るは楚と斉を手中にし、貨幣を統一させ、車軌の統制、匈奴の対策と、遊牧民族蛮の殲滅。その大軍を持って、趙を叩き潰すつもりだった。
――準備は順調に進んでいたはずだ。楚と趙の同盟など、なければ!
「凱旋時に、私に棘の花を大量に投げつけたハナタレ小僧がいたな……」
「おお、思い出されたか! そのハナタレ小僧こそが、珠羽ですわ!」
頷いて、天武は僅かばかり、過去に思いを馳せた。
(私は驚いて、父の足の後に隠れた……棘が刺さって……)
「あの通り、無骨に育ちまして。――庚氏がおらぬと、珠羽は暴れることもできない様子」
――それが分かっていて、庚氏を私に差し出したな。
実際に、珠羽の動揺ぶりは凄いものがあった。意地の悪い言葉を出した天武も天武だが、ああも簡単に逆上するとは思わなかった。
「気にしなくて宜しい。甥の教育には慣れておりますゆえ」
「なぜに、庚氏を?」
項賴は珠羽に似ている。洒落っ気などない様子で、鎧の下に着る服に、風避けの上着を羽織っているが、それが逆に威厳を感じさせる。素朴だからこそ、物静かな威厳があるというか。
「庚氏は私の姪に当たる。珠羽とは血が同じ。どうしてもというので、珠羽との婚姻を認めたが、元々は秦の王との密約で、いずれは秦に向かわせる予定でした」
天武の手が剣を握るのを、武大師が止めた。ふと見ると、憮然としつつも、護りに徹している陸睦の視線が、天武に注がれている。
あっちこっちからこう、睨まれるのも、気分が悪い。
「前身の周王朝に取り入り、何とか王になった男も、妻は妹でした。その血は濃すぎて、短命を生みましたかな。庚氏は、運命に逆らうような娘ではない。秦の王には、相応しいでしょう。あれで、可愛いところもあるのですよ。書簡を読む横顔など、芍薬の淑女ですからな」
――それは返答しかねる! どこが淑女。聞いて呆れるわ。とは言えず、天武は微笑んだ。苛つきを見抜かれぬよう、口調を丁寧にしてみる。
「先日も、私の読み終えた書簡を、楽しそうに読んでおりました。宮の女官も、影響されて、みな、字や学問に興味を示し始めた。庚氏は秦の文化の躍進にも一役を買っている」
岳樺が見事な、秋の風景に眼を細めながら、天武は更に珠羽に眼をやった。
しかし、庚氏は何を企んでいる。
夫の血気盛んな性格を熟知した上で、天武と見合わせるかの如く時期を計った。あの策略家は何を――。
「失礼ながら、庚氏には策謀の才能が?」
聞いていた武大師が、滅多に吐かない驚きの声を小さく発した。
「なんという侮辱を! 秦の王! 兵がみな、反論しますぞ!」
「反論しているのは、そなただ。何だ、急に」
今や貴妃は男たちの憧れでもある。特に、滅多に出て来ない上級貴妃、庚氏・遥媛の姿を見られれば、幸せが訪れるとまで噂されている。武大師は庚氏が気に入っているらしい。
「数多の貴妃に振り回されている間に、暴れますぞ。いや、その口ぶりは、すでにしてやられたか! 秦の王」
豪快に笑われ、天武は項賴を斬りたくなった。
「厭味な書簡を書かれただけだ」
「では庚氏は秦の王をお気に召された……珠羽など敵いませんなあ」
――黙れ、狸。へり下る気力も失せるわ。
天武は横柄な態度に戻った。だが、項賴はどうでもいいらしく、にこにこと親善の笑みを浮かべている。食えぬ男だ。
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