楚の猛将虎――天武の次なる勅命は進軍二万――
天武は夜風に黒髪を揺らし、まっすぐに拡がる山麓を眼に映して、夜空を振り仰いだ。
(私の母は、先の燕の戦いで死んだのです)
脳裏の奥から響いて来た花芯の声に、首を振り、夜空の美しさに眼を潤ませた。
冬が近づく匂いがする。
「先の燕の戦いで……死んだ、か……」
城壁にこぼれ落ちた瓦礫を手に取る。脆くも瓦礫は崩れ、砂と成り果てた。
「冗談じゃありませんわ!」
香桜は思わず発せられた翠蝶華の叫びに耳を押さえて顔を曇らせた。
翠蝶華の声はよく響く上、口調の語尾がきつい。
「なぜに私が楚などに赴かなければなりませんの! 香桜さま、はっきりと申し上げますが、私は確かに咸陽にて、宮妓として雇われております。でも、それは、天武が劉剥を見つけるという約束があったからこそ。反故にされた以上、すぐにでもお暇したい気持ちですのよ。いっそ一泡吹かせてやりたいわ。方法はないのかしら」
――やはりな……しかも呼び捨てにしている口調に気付いていないほど怒っている。
翠蝶華はぷいと顔を反らし、言葉を押し留めている。
翠蝶華は親指を噛んだ。天武が翠蝶華を気に入っているのは明確だが、また翠蝶華が天武を嫌っているのも明確だから、妙な話ではある。
「方法か。あるよ。貴女が貴妃になればいい。天武が望むのは、貴女を貴妃にして、思う存分、抱くことだ。桃などを吐き付けるから、厄介な男の自虐心を起こす。自業自得というものさ」
聞いていた翠蝶華の頬は真っ赤に染まった。
そう。翠蝶華と天武は散々な出逢いを果たしている。劉剥を追って、翠蝶華は燕まで来て、さすがに女一人では進めず、仙女に縋る如く、桃の傍で夜を明かそうとしていた。
出来心で桃を落としてやった。だが、その桃を、あろうことか天武に吐き付けたのだ。
今思い出しても笑い出したくなる。
「どこで見ていらしたの……お、思う存分……? そんな眼で私を見ているの……」
香桜は眼を細めた。どうして人間はこう、面白い。
水に波紋を一滴投げかければ、勝手に暴風雨にして、大騒ぎをする。
「さあて、楚には俺の妻が拉致されているのでね。俺はゆくとするよ」
翠蝶華から離れ、香桜は楚の方向に爪先を向ける。
香桜はゆっくりと名を舌に乗せた。
「可哀想に、あの広すぎる宮殿の一番最奥に押し込められていた。花を嫌う天武によってね。俺は妻との約束がある」
今のところ、花芯は大人しいが、そろそろ頃合いだ。天武に相手にされない花芯は、すがりついてくる……あの表情を絶頂に導くのを考えただけで、高揚する。
(女に構うのは、久しぶりだ。遥媛公主以来か)
翠蝶華は無言で香桜を見つめていたが、やがて気丈な黒檀の瞳をしっかりと輝かせた。
「私も行きますわ! 劉剥を助けてと懇願……こ、…お願いをしに天武の前で…手……手をついて……」
相当な屈辱がある翠蝶華は唇を震わせつつも、しっかりと口にした。
「私一人の苦しみで済むのなら……あの天龍を助け出して見せますわ。でないと、あの女后戚に負けてしまう。庚氏さまが教えてくださいました……男は最大限に利用して捨てるものだと」
――こっちも、しっかりすっぽり、庚氏の罠に嵌っている。
「翠蝶華。国の頂点の男をからかうのも大概にしろよ」
あ、あら……と翠蝶華は両頬を押さえて見せ、更に恥ずかしさを重ね、何度も瞬きを繰り返した。
「では行くとするか。――やれやれ、俺が秦軍を率いるなんて思いもしなかった」
歴史に関わってはならないはずが日々引きづり込まれている気がする。
香桜は翠蝶華の手を取り、宮殿の外に集まり始めた秦兵たちを眺めた。
常に兵は補充される。近隣の貧しい少年たちは、これでもかと親に差し出される。兵の能力が皆無のものは、宦官となる。秦の兵は、こうして量産されていた。
「まあ、たくさんの兵……まさか」
狼の尾の如く、香桜の髪が闇風に戦ぐ。
「そう。兵を率いて楚へ赴けと。我らが天武さまの命令だ。その宴に、華を添えて欲しいそうだよ」
翠蝶華が一度だけ天龍の登る方角を振り返る。劉剥が生きている証拠を眼に焼き付けて咸陽を離れるつもりだ。翠蝶華は、こと劉剥の話になると、可愛げがある。
「行きましょう。戦いなど、私が止めてみせますわ」
夜風に、翠蝶華の紅の長裙が舞い上がる。黒髪を風が晒い、隙間なく塗られた肌を月光が照らし出した。
「私はおとなしく天武の帰りなど待ちはしない。目に物見せてくれますわ」
やれやれ。また何をしでかすつもりか。
後宮を空けるのが心配だが、遥媛公主が上手くやる。それに、奔起もそろそろ稼働する頃。
(少し脅しておくか。いつまでも娘を憂い、すっこんでいられるのも迷惑)
香桜は、翠蝶華から離れ、皇宮に引き返すと、火棘の前で遥媛公主の名を呼んだ。
ずっと様子を窺っていた遥媛公主が、しぶしぶと姿を見せる。
「後宮で、娘の部屋で蹲ったままのだらしない男の尻に、火を付けよ」
「また私に、そのようなつまらぬ仕事をしろと」
大きな羽衣を身に纏って、遥媛公主は香桜を睨んだ。
「私の火は消えませんのよ。後宮が丸焼けになりますわ」
同時に皇宮を振り返る。咸陽の主なき皇宮は、変わらず雄大な姿を我が物にしている。
九十九段ある階段には赤い毛氈が引かれ、皇宮への道を輝かしく見せる。
「もしも咸陽が燃えるようなら、楚から白龍公主を寄越すよ」
遥媛公主は更に香桜を睨み付けた。
「すこぉし、天武の意地の悪さやら、翠蝶華の可愛げない言動に惑わされておいでのようです。天帝たる自覚を思い出してくださいませんか。私はあの男が大嫌い」
やはり、遥媛公主の説教は嫌いではないなと、香桜は密かに思った。
飛ぶなと言っているにも拘わらず、遥媛公主は羽衣で浮遊すると、皇宮の中に堂々と歩いて行き……しばらくして、奔起がおおわらわで飛び出してきた。
尻に紅の火が着いているのだ。
(そういう意味で言ったのではないのだがな……本当に点けるのだから、怖いよな)
「動くな。水では消えない」
憐れな男に手で風を送ってやり、鎮火する。座り込んだ男の腕を引いた。
よれよれした男を金の眼で魂までも見透かし睨む。
「とっとと仕事を始めよ! 天龍が喰いに来ようぞ! そなたが我が妻……。いや、花芯の居場所を護るのだ!」
奔起は飛び上がり、また皇宮に戻って行った。後で、憮然とした様子で、遥媛公主が歩いてきた。兵たちが注目している。噎び泣くものもいた。
遥媛公主は僅かに開いた着物から、足を飛び出させ、平然と羽衣を纏い、歩く。
天女だと騒がれている噂など、どうでも良いらしい。
「ご苦労、遥媛公主」
遥媛公主は納得が行かないとぼやき、煙管を銜えて、一吹きして、宮殿に消えてゆく。
「さて、片付いた。赤の蝶を肩に留め、花芯に逢いにゆくとしよう」
――秦軍二万。楚へ進軍せよ。いずれ、機は来よう。秦の宮妓はただちに、首都へ。後宮の軍配は一時、爵位典客の香桜に預ける――
それが天武の次なる勅命であった。
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