楚の猛将虎――同じ土地でも、こうも風土が違う。文化も、生き様も
花芯の首を掻ききろうと、剣が引かれる……はずが、花芯は小さく悲鳴を上げただけだった。
「珠羽! この分からず屋が! 俺に面倒を掛けさせるな!」
ピキンと珠羽の剣は凍り付いて、氷柱の如く滴を垂らしている。
――剣が、凍った……?
シュウシュウと剣の氷は靜かに解け、花芯から剣を完全に遠ざける頃には、もとの鋭い刃が姿を見せていた。
――有り得ない。氷が降ったのだ……。
捷紀は眼に一瞬白い炎を滾らせ、すぐにしまい込んだ。
「氷龍が怒った。珠羽、剣を納めよ。おまえは庚氏の耐えている姿を知らないのだ。誰より楚を愛し、下った庚氏の心を無にするなど、夫の名折れ」
違う…と小さな呟きが降る。
「庚氏が愛しているのは楚ではなく、このわたしだ……」
珠羽は眼に僅かに涙を浮かばせていたが、片手でそれを、すっと拭って見せると、背中を向けた。
「天の氷龍に咎められては、中断せざるを得まい。いつか、愛するものを奪う痛みを、わたしがあなたに与えよう。いつか、取って代わるぞ! 秦の王!」
捨て台詞までもが、庚氏と同じに打撃に満ちている。
叡珠羽。とんでもなく、熱い男だ。悪女、庚氏妃の夫なだけはある。
珠羽が去った後。
天武は花芯に目を向けた。花芯はささっと顔を隠し、小さくなっている。
怒りの形相の庚氏の夫、使いにくい長剣に、突如として凍り付いた剣……花芯の向こう見ずな態度に、庚氏の書簡。
――もはや、怒る気力もない。
それに天武の標的は移っていた。
留守にぬけぬけと妻を奪われるような、政治に蚊帳の外の激情男など、問題外。
――問題は、これほどの権力を発揮している叡項賴の存在。
「天武さま、ごめんなさい……剣戯の邪魔をしてしまいました」
しょんぼりと元気のない弱々しい声だ。花芯は珠羽に殺されそうになった事実より、天武の雷に怯えているのがよく分かる。
天武自身に怯えられては、怒りの矛先を向けられやしない。
「ほう。あれが剣の練習に見えたのか」
花芯は小さく頷いた。莫迦、と呟くと、天武は花芯の頭を撫でる。
「ひやっとしたぞ。殺されては始まらぬよな」
花芯は涙を呑み込むと、ようやく天武を見、口元を手で覆った。みるみる涙が噴き出してくる。さすがに怖かったのだろうとかける言葉を考えあぐねている前で、花芯はぽつりと呟いた。
「庚氏さまを、本気で抱いたの?」
(七面倒くさい小娘だな。そんなところばかり理解しておる)
天武は目線を逸らせ、感情を見せず冷淡に返答した。
「だから、なんだ」
何だか厄介な展開に……と身を引こうとしたが、花芯の手は、天武の袖をしっかりと掴んでいた。
頬を赤らめ、ようやく言えたというような憂い顔だ。
「……わたしも、ちゃんと愛されたく存じます」
真摯な瞳はけして、逃がしはしないという強さに溢れている。
天武は目線を逸らせず、唇を歪めて見せた。
「……もうわかったから、寝ろ。桃饅頭の夢でも見ていろ」
「まあ! 私が天武さまがずっと抱き続けたい美女になっても、相手しませんからね!」
ぷりぷりと怒って去って行った。「大変ですね」と口先だけ同情した捷紀は、ふいに物音を聞きつけ、嬉しそうに顔を輝かせた。
「項賴が軍を引き、戻りました」
先ほどの剣を鞘に納めた捷紀の影が跳ねた。
――今、足が浮かなかったか?
捷紀はしっかりと足帯を巻き、薄い草履を履いている。そのせいで足音がしないのだ。
宙に浮くなど、有り得ない。気のせいだ。
――疲れている。そういえば、一睡もしておらぬ……。
(香桜の笛が聞こえぬと、眠れぬ。花芯でも、抱き締めて寝るか……いや、また面倒だ。方士の話など、聞きたくもない。あの娘とは関わりたくない)
関わりたい相手は違う。
(そういえば、秦に早馬を飛ばしたが、そろそろ到着する頃。翠蝶華を連れて来れば、褒美を取らすとは、さすがに言えなかった)
女から逃げ回るなど、統一を目論む男のやる態度ではない。向かい合って話をせねば、翠蝶華には勝てぬ。
思慮に耽った天武に、捷紀が厳かな口調で告げ、強く視線を浴びせてきた。
「秦の王。項賴は王に謁見後、明日にも楚秦の会談を開くでしょう。しばし、あの愛おしい貴妃との夜を。また、呼びに参ります」
天武はぎろりと捷紀を睨んだ。
「そなた、花芯と私のやりとりを見て、密かに笑っていたな。項賴の部下という立場に免じて許してやるが、二度はない」
捷紀は驚愕し、落ち着いた口調で、ゆっくりと礼を述べた後、足音なく立ち去った。
天武は、山々が凍る音を聞きながら、その夜は寝台には戻らず、ただ、楚の風景を眼に映して過ごす決断をした。
――同じ土地でも、こうも風土が違う。文化も、生き様もだ。
数多の人間が、数多の願いや、信念を抱え、もがいているさまを、天は面白く眺めるのであろう。
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