楚の猛将虎――猪突する虎と王
「秦に踏み込まなかったが、百人も突破したなら、本懐を遂げられたであろうに」
「あなたには関係がない」
嘲ったような口ぶりに、天武の腹が僅かに煮えた。そのような態度であれば、天武とて考えがある。加えて、珠羽の口調は燕の武将と悉く類似しているのも、つくづく腹に据えかねる。静かな物言いが、いちいち癇に障る。
(この辺りで脅しておくのも、また一興か)
天武は報復するかの如く、不遜に笑って見せた。珠羽の剛直な眉が即座に上がる。
――違うな。荊軻よりも扱いやすそうだ。
「秦の守りは堅いと見知って怖じ気づいたか」
「水まき程度で、瓦解する兵など、相手にする価値もない。率いた男の力量が知れるな」
完全なる言い返し。語彙力では、珠羽のほうが上だ。楚の学問力は秦を勝る。庚氏のように女でも字が読める環境だ。趙でも、秦でも、まだ学術の普及は始まったばかり。
楚の文化は、知力に支えられている。項賴も、相当な策謀家であり、庚氏も然りだ。
――統一の課題が、一つ増えた。強き武将ばかりの国では、いずれ侵略の憂き目を見る。
天武は書簡が読めるが、臣下で読める者は少ない。庚氏が男であれば、即時に爵位を与えて中央に配置するものを。
珠羽は捷紀に手で合図を送り、捷紀が腰から剣を鞘ごと外し、天武に差し出して見せた。
真鍮で打たれた、なかなか見栄えのいい長剣だ。
「何の真似だ?」
捷紀の剣は細身だ。天武が愛用する銅剣の半分ほどの刃幅しかない。恐らく相手を刺す武器だ。
――いまいち手に馴染まない。軽すぎる。
剣を受け取った瞬間、珠羽は応戦の構えになった。
「剣を持たない相手とは戦えぬ。それが、楚の軍人の掟」
水藻が揺れるような静かな口調。だが、双の眦は僅かに震えている。
やがて男は剣を水平に掲げ、長い腕の向こうで吐き捨てた。
「我が愛する妻、庚氏を奪った悪の所業。地の底まで蹴り落としてくれよう!」
――速い!
「庚氏は策謀の女。愛する男の気が知れぬな!」
斜めに避けながら、天武は肩の骨を鳴らしてみせる。
慣れれば珠羽の動きは読みやすい。太刀筋を避けるのは容易だが、速度と重さがある。しかし一度どうにか躱してしまえば、分はある。
珠羽は躰が大きいせいで、次の攻めの体勢を整えるまでに、僅かな間を必要とする。
(ふん……おまえなぞより、場数は上だ! 殺されかけた経験など、ないのだろう)
防護のない攻め一本の面白みのない剣など、恐るるに足らぬ。
「逃げ回るのも飽きる……こちらから……」
言いかけて、剣が軽い事実に気付いた。珠羽の剣を受けるには刀身が薄すぎる。
――耐えられるか?
天武は剣を顔面にて構えた。刃が擦れる音がして、珠羽は離れた。受けた腕がじんじんと震える。思ったよりも、重量が腕を痺れさせる。
掠れた反動で、土の壁に亀裂が入った。
(何という腕力だ……)
何とか身を躱したが、まだ腕が痺れている。
ち、と小さな舌打ちの後、珠羽は宣言するかの如く告げた。
「我が愛妻を奪い、辱める秦の王よ! 改めて、俺と勝負しろ。決闘を申し込む」
楚の夜に氷化した土混じりの風が吹き抜ける。
天武は剣で己を支え、ゆっくりと立ち上がり、長剣を勇ましく振って見せた。だいぶ手に馴染んできた。軽さが逆に有り難い。
「いいだろう。長剣を扱うによい機会だ。この秦の王がやすやすと負けるか! 女一人奪われた程度で見苦しい! 情けないぞ、楚の虎よ」
なんだと……と珠羽が逆上の表情になる。天武は長剣を振るった。動揺している。
(猪突する虎と王が違う点を身をもって教えてやろう)
愛や女が時に弱点になる。珠羽は自ら心臓を差し出したようなものだ。試しに「庚氏」と囁いてみると、珠羽の動きは更に動揺を呈した。
――庚氏。策略家のそなたの夫にしては、いささか単純過ぎる。
「普段は気高いが、牀榻では随分と甘えた顔をする。挿入の際は顔を緩め、自ら欲しがったわ」
にやりと笑いながら言ってみる。珠羽は顔色を変えた。翠蝶華の如くわかりやすくて、愉快。
「麗しい細腰をくねらせて黒髪を振り回し、そなたの名を呼びながら、私の上で何度も何度も震えたぞ。あまりに好かったから、体内に預けてやった。意味が分かるか? 今や庚氏の中に」
珠羽は唇までも震わせている。剣はもはや振るえまい。
面白くなってきたところで劈くような声が響いた。
「それは本当のお話ですか! 天武さま!」
――なぜ、こんなところに、しゃしゃり出てくる……。
花芯は剣を振るう男二人の前におずおずと姿を見せ、長衣を翻して、珠羽に向かい合った。眼を見開く天武の前で、艶やかに頭を下げたのだ。
「秦の王の第五貴妃、爵位賢妃の花芯と申します。どうぞ、剣をお納めくださいませ。主人の無礼、私が代わりに謝り……」
珠羽の腕が花芯に伸び、素早く唇を奪った。天武の手から長剣が滑り落ち、捷紀がやれやれと靜かに拾う。
「楚の決闘では、武器を手放したほうが負けとなります。珠羽! 気が済んだなら……」
捷紀が言葉を失う。珠羽の凶刃は花芯に向けられていた。口づけは油断のためか。
手段を問わない狂気ぶりだ。
「謝るだけでは済まないな。切り裂いてやる」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます