楚の猛将虎――珠羽の帰還

 花芯を置き去りにして、天武は砂城の回廊を進み、ちょうど正面から歩いて来た捷紀と出会い、足を止めた。

 捷紀しょうきは驚いて、天武の名を口にし、悠々と目下を眺め、頭を下げた。


「邪魔をしたようですね。珠羽しゅはの帰還です。あの騒ぎは、兵が喜んで迎えたために起こったものですよ。これから、誰が珠羽の馬を連れてゆくかで、揉め始めます」

「ほう? 黒馬か」


 言いながら、おや? と厩舎を見下ろした。一番に駆けつけた兵は、どう見ても陸睦だ。楚の兵と混じって、黒馬の前で挙手している。


 ――馬好きには、敵国など関係がないな。見逃してやるわ。


微笑ましくも、少々悔しさもあるような、微妙な感情を噛みしめている天武の前で、捷紀が少し、好奇心を滲ませたような、声音で静かに問うて来た。


 ――やはり、傍観ばかりの香桜に重なるな、この男は。


「時に、秦の王、貴妃との時間を過ごされていたのでは?」

「別に、独り寝ができぬ歳でもなかろう……ふむ、珠羽か……確か、庚氏の夫であったな」


 捷紀は艶やかな黒髪を揺らし、ゆっくりと頷いて見せた。


「秦の王、申し上げにくいのですが」


 返事した瞬間、天武の束ねていた髪がばさりと肩に降りた。ふと手を当てると、縛り上げていた麻紐がない。足下に感触を感じて下を見やる。


 何かが飛んできたのだ。

 ――短剣だ。至極小さな、しかも、馬の鬣を整えるための剪刀であった。

 気配に気付いて髪を押さえ、振り返ると、唇を薄く引いた男が天武を睨んでいた。顔に見覚えがある。剪刀を投げた手を下ろしもせず、空で腕を止めている。

 ――昭関でこちらを見下ろしていた顔……! 


「……まさか、私に向かって投げた、のか…」


 捷紀も慌てて男を振り返り、目くじらを立て、名前を呼んだ。


「珠羽! この方は……」


 長く垂らした前髪が可笑しそうに揺れる。合間から飴色の瞳が覗いた。


「知っていますよ。残虐に名高い秦の王、わたしの恋敵だ」


 天武は唇を曲げ、相手の男の背中に見え隠れする大剣を睨み、腰に手をやった。ところが、すかっと手は空気を掻き混ぜるだけで、剣はない。

 天武は花芯を思い浮かべ、唇を噛む。先ほどの悪戯の際、確か、外して窓際に……。


「お会いできるとは思いませんでしたが」


 珠羽が近づいてきた。近距離になると、体格の良さが際立って見える。


 男は靜かで有りながらも、一歩一歩を重く踏み出して、正面から歩いてくる。感じるのは、怒りだ。天武は眉を下げた。


「なにゆえ、あいつは怒っておる。庚氏か? 和平のために庚氏を娶ったのだ。よもや、納得していないなどということは……」


 首を傾げた前で、捷紀はさも、告げるのに躊躇しているといった風情だった。

「実は庚氏さまが秦に嫁がれた現状を、珠羽は知らない。いや、事後承諾でありました。楚は今や項賴の権力が大きく、此度の趙との協定も、項賴の力があってこその縁談であり、珠羽が遠征中に、庚氏さまを秦に譲った背景がある」


 ――それで、怒りの形相か。庚氏がしきりに珠羽を案じている理由が分かった。

 黙ってやりとりを聞いていた珠羽は何かを天武の足下に投げてみせた。見るなり、心臓が止まりそうになる。動揺を見せない無表情で手にとった。


秦の足篭手――。


間違いがない。漆を塗り込んだ一級品は将に揃えで配布したものだった。

珠羽は背中に背負っていた大剣の柄を握り、足を広げて、剣を抜く。


「妻に逢いに行ったが、秦には入れぬと言う。庚氏から聞いてはおらぬのですか? 叡珠羽の短気さは、かの秦の王と並ぶ。怒れば邑一つを焼き焦がす。よくご存じでしょう」


 さすがは、あの庚氏の夫。厭味がお上手だ。


 はん、と天武は軽くせせら笑ったが、与えられる不愉快さは、夫婦揃って無礼きわまりない。


(言ってやるか。貴様の妻の、褥のはしたない所業……)


 ふと脳裏に、庚氏の嫌がらせの書簡が浮かんだ。珠羽を散々恋しがった挙げ句、無粋に抱かれた己を哀しんでいた。無理矢理、体内で出させておいて、随分な書き態だった。夫を褒め称え、天武を完全に虚仮にしていた。


「安い挑発だ」


 珠羽は眼に笑いを滲ませ、美貌を歪めた。


(む? 何故に笑っている)


 抜いた剣を横に構え、鋭い刃の向こうから、珠羽はせせら笑った。 


「兵およそ百人を血祭りに上げさせて貰った。残りは手を掛けるまでもなく、蜘蛛の子を散らすように瓦解した。秦の兵は腰抜けの集まりか。皆、わたしに恐れを為して、逃亡していったぞ。残ったのは老兵ばかりだ。老い先を案じれば、斬る気にもならん」


 珠羽は、流暢な喋りの上に、淡々としているが、心情がすぐに口を突いて出る性分だ。怒りは今度は、天武に付き従う捷紀に向いてゆく。忙しい男だ。


「捷紀。君は、楚に仕えているのだろう。敵を接待するのか」

「いえ、項賴は秦の王を歓迎せよと」

「叔父の犬が……俺の邪魔はしてくれるなよ」


 ――私の兵を血祭りにだと?では、関所は……楼閣は突破されたのか。いや、それはないな


 ……だが、どうして、珠羽は攻め込まなかった……?

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