楚の猛将虎――花の気品・猛る皇帝――
用意された客室には花が生けてあったが、天武の機嫌を感じ取った捷紀により、撤去されている。正面に敷かれた虎の毛皮の上にどかっと腰を下ろす。
おあつらえ向きに、
天上には蒼龍と呼ばれる氷龍が描かれ、象嵌らしき瞳が靜かに寝台を見下ろしていた。
「おまえを連れてきたのは、奔起への牽制だ。勘違いするな」
花芯も負けずに言い返した。
「先日、その腕で抱き留めましたわ」
「事故だ! 事故! おまえが落ちそうになったから、止めたまで」
「とっても嬉しゅうございました。世界で一番幸せな瞬間でございましたわ」
天武は眉を下げた。花芯は桃腮を膨らませ、更に口添えし、告げる。
「私の幸せな時間は、たとえ天武さまにでも、邪魔はさせない……花芯は、ずっと天武さまを見つめておりました」
剣に注がれていた目は、いつしか花芯に釘付けになっている。花芯の言葉は、見ぬ振りをしてきた何かを抉じ開けようとする。
――此の世に救いなどないと否定したはずのものを恋い焦がれる……そんな表現が相応しい。
「天武さまが即位なさった時、私は父に肩車をしてもらい、天武さまをお見初めしたのです。天武さまは花を下さいました。その時視えたの。私と天武さまは、ずっと一緒にいるの。永遠にですわ」
――覚えていない。花を渡した? そういえば、花に嫌悪感を抱き始めたのは、いつだ?
(即位というと……若かりし頃の話だ。まだ、父上がいた時か?)
ふと見ると、花芯が自分の帯を解いている。
「準備ですわ。……御指南いただきますよう」
……全く思考が読めぬ。
天武は牀榻に腰を掛け、髪を解いた。花芯の手が結い上げていた髪を同じく解いてみせる。豊かなゆるやかな、美しい髪が視界を奪う。だが、そこまでだ。
「何やら知らぬが、独りで頑張れ。私は休むぞ」
言った顔に、ばしんと、どこから持って来たのか、庚申薔薇が投げられる。続いて水仙に、蘭、火棘……。
「止めろ! 花を私に触れさせるな!」
天武の声に、花芯の腕がびくりと震え、腕が天武に伸びた。
「今は私自身が、後宮です。さあ、お仕事をなさいませ」
震えながらも、花芯はきっぱりと告げて見せた。意志の強そうな瞳が煌めいて、天武を映している。
「私は天武さまの貴妃ですわ! 誰より、貴方様に尽くす、貴妃ですのよ!」
下ろした髪がふわりと背中まで落ちる。麗しい眼に、引き締まってはいるが、可憐に緩んでいる朱唇、よく濡れる瞳。
何よりも、声だ。なんとも気高そうな美しい声を発す。普段はぼそぼそと喋るので、気付かなかった。
天武の上半身が牀榻の上で花芯に向いた。手が触れて、花芯が牀榻に倒れ込む。覆い被さって、天武は花芯の上に跨がり、低く掠れ声で囁いた。
「何をされても良い? 男は甘くない。私は、牀榻でも手は抜かぬよ」
瞼の裏に翠蝶華が過ぎった。花芯は、天武の肩から落ちそうな服に指を絡めて、力一杯ぎゅうと掴んでいる。
花芯の喉がヒクンと鳴った。見るみる涙が溢れて、牀榻の布に染み込む。
「ずっと寂しゅうございました……天武さまは絶対に私をお呼びになりません」
伏せた睫は僅かに赤い。赤い煌めきに、胸が高鳴った。天武は花芯の伸びきった髪を片手で持ち上げて見せる。
間近で顔を覗き込むと、花芯は双眸をさらに輝かせて、真珠色の涙をこぼして見せた。
「こんなに美人なのに、何故に顔を隠していた」
伏し目がちの表情に、あろうことか、同じような表情をして自身を食んだ庚氏の仕草を思い出して、天武は花芯の手をそっと持ち上げた。
「夜の睦みを教えてやろう。私はおまえに触れ、隅々まで見るし、おまえも私を心地よくさせるべく……こら、隠れていないで話を聞け」
天武は花芯を見下ろし、双眸を伏せて、上着を脱いだ。
花芯はおずおずと手を伸ばし、天武の胸襟を撫で始めた。ゆっくりとした動きで、不思議そうな顔をして、胸に手を当て、少しだけ指を離し、またそっと当てた。
「鼓動が、何て逞しい……」
「おまえに興奮しているからだ。嬉しいか?」
花芯の純粋な瞳が、天武に注がれ、嘘偽りのない澄んだ瞳はゆっくりと三日月になる。
――この娘は本気で、こんな私を――なぜ……だ?
笑みを感じ取った瞬間、体内に稲妻が駆け抜けるような感覚に襲われる。
(猛る……っ……!)
庚氏に奪われてより、不調だった体に、充足の気が満ちていった。花芯の足の付け根に男根が擦られる。眼を瞠る花芯の手を、そっと添えようとして――
俄に騒がしくなった。
天武は躰を引いて窺おうとし、それより早く、花芯の華奢な腕が天武を引き寄せる。
柔らかな桃唇が頬を滑り、朱唇に辿り着く。
驚き、垂れ目を見開く天武に眼を細め、花芯は唇を吸ったのだ。それが合図。天武の腕に力がこもる。二人同じように伸ばした足を絡め合って、更なる深さの口づけに突入する。
花芯は麗しく、天武の片腕に顔を押しつけながらも、少しずつ躰を開こうとし……コトン、と胸元から何かが落ちた。
はっと気がついた花芯の手が、小瓶を引ったくり、再び袖の中に隠す。
小瓶には桃の花びらを乾燥させたような枯れ花が詰まっているのが見えた。
「母の形見ですわ」
「……そう言えば、おまえ、母の話はせぬな。役に立たぬ父親はよく見知っているがな」
「母は先の燕の戦いで死にましたの。方士でした」
途端に体の火照りが醒めた。
先ほどの甘い雰囲気など、頭から吹き飛んでいる。
気付いた花芯の手が震えた。
「天武さま! どうして、そんな酷い目をするの……?」
花芯の声など聞こえない。寝台を降り、窓辺に歩み寄ると、ふっと楚の夜の街を見下ろした。兵たちが、囲みの陣を解いている……?
「外を見て来る。何やら騒がしい」
天武が立ち去る後で、花芯の呪うような言葉が響く。
「どうして、どうして邪魔をするの……」
声は小さく、うっかりすれば聞き逃してしまいそうな。そんな細い声であった。
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