楚の猛将虎――后の務め――

 天武は龍を目にする度に、何とも言えない苛つきに苛まれていた。

 空に一瞬だけ舞い上がった天龍を目の当たりにしたのが原因だ。目の錯覚ではなかった。しかも、天龍は咸陽の方角から立ち昇ったのだ。


 苛々する天武を気遣って、捷紀が武器庫を解放すると言い、ようやく機嫌が直ってきたところである。


「項賴の大切な国賓でありますから」とは、建前。秦の王が苛つくと何が起こるのかを、想定しているような口ぶりであった。


 楚の宮殿は咸陽の宮殿とは違い、一風変わっていた。巨大な砂城に、白石の龍が立ち並ぶ。天武は興味津々で楚の宮殿を歩き回っては、建築技術や彫刻に感嘆の声を漏らしてみせる。武器庫は砂城の範疇にある。陵墓でも使用している版築の技術で作られた土牢の中に、備え付けた板があり、武器が一つずつ立てかけられている。謂わば、武器の博物館のようであった。


 さすがは軍事国。天武は楚を滅ぼさずにおいて正解だと思うと同時に、庚氏に僅かばかり感謝した。


 むろん、強引に放出させられた部分の腹立たしさはあるが、この際、種を奪われた事実については、脳裏から消去した。第一、一度や二度の射精で、ややができて堪るものか。


「突き用の剣はあるか。馬上で使用する」

「大刀ですか……珠羽が愛用していますね」


 華陰で刃を交えた劉剥の持つ武器は、珍しいものであったらしく、見当たらない。

 壁に設えられた剣の置き場には、開発途中の多様多種な武器が並んでいた。珍しい武器の数々に頬も綻ぶ。


 羅棒、龍矛、春秋大刀、蛇矛に大龍戦斧、天武の手が一つの武器を持ち上げる。

 刃が月の如く歪曲している。柄が長いのを見ると、突き上げて使うのだろうか。

 取り出して構えてみると、いささか邪魔な気がする。


 捷紀が説明を加えた。


「偃月刀ですね。極めて重い刃を備えた大刀の一種です。三日月の形をした刃が特徴で、実戦よりも演舞向きな剣です」


 ――演舞か。翠蝶華に持たせてみたいところだ。


 変わらず脳裏の翠蝶華は刃先を天武に向けようとするのだが、これは、致し方ない。


 約束を反故にした良心の呵責だ。

 天武は剣を構えて振ってみたが、軽すぎる。これでは敵を逃がしてしまう。確かに演舞用のほうが向きだ。



「秦では巨大な陵墓を作られているとか」



 次なる大剣を手にしていた天武の両眼が声の主に向く。大ぶりな剣は華奢な兵には向かない……肩が凝りそうだ。次。


「陵墓、という言い方は、好きではないな。そもそも墓を作るつもりはないが、罪人たちを処分するには、いい切っ掛けとなった」


 捷紀の声が風の如く響いている。


「ところで、先ほど早馬を出していたようですが」


 感情を一切交えない氷の口調に、天武は逆に柔和に言い返した。


「案ずるな。兵を集めてなどおらぬ。先日の宴の礼に、秦の文化を披露しようと思うてな。見事な笛吹きがおると言っただろう」


 ぴく、と捷紀は手を震わせ、やんわりとした口調で訊いた。


「もしや、その笛吹きは少々吊り目で、背の高い。皮肉げな口元をした男では……」

「名を香桜と言い、燕での兵士の死体の中で笛を鳴らしていた。その音色があまりに美しかったので、我が秦の芸術に一役買ってもらえまいかと、私が命じたのだ。以降、咸陽に住み着いておるわ」


「そうですか……酔狂な男ですね」


 言い得て妙である。確かに、あの男、香桜は酔狂だ。


 クックと喉で笑いながら、捷紀は続けた。


「その音色は天命の音だったことでしょう。お会いできるのが楽しみですよ」


 ――気に懸かる言い方だ。


 相変わらず半月刀の鮮やかな装飾に目を奪われながら、天武は微笑んだ。

 早馬には、香桜だけではなく、翠蝶華の参上も命じている。漢で剣舞の宮妓をしていた翠蝶華の舞をきちんと見る機会は、咸陽にはなかった。

 殷徳や、庚氏。遥媛公主らは、こぞって翠蝶華の舞を褒めそやした。


 だが、翠蝶華は天武の命令など聞かない。ことあるごとに「さあ、秦の王を侮辱しましたわ! 永巷に参ります!」と背中を向ける有様だ。



 ふと、咸陽が懐かしくなった。



 渭水の漣、月夜に美しく響く大水法に、香桜の笛の音。優雅に舞う剣舞と舞曲。離れて見れば、苛々して叩き飛ばす夜の札すらも、恋しくなる。

 ――咸陽の宮殿が好きなのだと感じる瞬間は、確かにある。


「次は戟ですが」

「長剣はないのか。私は銅剣を好むのだが、先日、折損してしまって」


 ふいに小さな足音が響いた。

 楚の民族衣装を着た花芯だ。花芯は少しずつ見せ始めた笑顔で顔を覗かせ、天武の姿を認めるなり、顔を輝かせた。


「なんだ。忙しい――もう夜も遅い。女が武器庫など覗くな、花芯」

「夜のご公務のお時間でございますわよ」


 天武は捷紀と戦略について話し始めた。子供に構っている時間が惜しい。


「楚の長剣は、鉄粉をふんだんに使っているのです」

「軽いが、よく斬れそうだな……試すか」


 天武は剣をわざと花芯に向けて、怯えさせてから、鞘に納めた。

 花芯が我慢できずに叫ぶ。


「私は、武器のお話についていけませんの! どうして邪険にするの……」

「それならば、引っ込んでいろ。女の来る場所ではない。おまえは、それでも貴妃か」


 花芯は首を振った。好きにしろと構うのをやめた。

 結局、一言も話に入れないながらも、花芯は一生懸命に話に耳を傾けていたが、やがて俯いてしまい、居場所がないような表情になった。


(その表情は見たくない。覚えが在る子供の顔だ)


 大人たちは理解できない話をして、時折自分の名前が混じる言葉を、ただ、震えながら聞いているしかできない子供の惨めな顔だ。耐えきれず、話を振ってやった。


「花芯、どう思う」

「あ、えっと……素晴らしい道具ですわ!」

「やはり、そなたには無理だ。知識が薄い」

「なら、教えてくださいませ! ……きゃっ」


 先ほど気に入った半月の剣を再び花芯に向けた。ふむ、脅しには使えそうだ。

 涙目の花芯を見ていると、少しだけ、好奇心が首を擡げてくる。と同時に躰が戦慄いた。


 そもそも普段であれば、後宮公務の時間。李逵に推され、渋々向かう仕事だが、躰は覚えてしまっている。


 宵の刻は、もっとも体内の気が充満する時間。それに、貴妃の爵位を与えている以上、花芯にも当然ながら義務は発生する。


 ――花芯が果たして貴妃を務められるかを見極めてやるか。どうせ、やることもないのだし。結果によっては、奔起を叩く事態になる。


 ふと、天武は花芯を見つめた。


 ――そう言えば、花芯の母親の話は、聞かぬな……。


「済まぬが、今日は、ここまでで結構。また見に来る」


 捷紀は分かりきった顔で頷き、武器を片付けると、武器庫の鍵を閉め、礼拝して去って行った。

 花芯は首を傾げながら、龍をしげしげと眺めているところだった。


「私の部屋に来い。……貴妃の務めを果たしてもらうぞ。言ったからには実行しろ」


 聞いた表情は、急に艶やかに見えてくる。


「貴妃の、お務め……」


 嬉しさと恥じらいを混ぜたような声音は聞いていて恥ずかしくなった。


「呆然とするな。楚の衣装が似合う」


 ほんの前戯代わりに褒めてやると、花芯は心底、嬉しそうに回って見せる。楚の色味を抑えた長裙は、普段はひらひらの衣装を着ている花芯の別面を醸し出す。意外と綺麗な躰をしている。


「おまえ、普段の花に埋もれる格好ではなく、今のような格好が良い」

「天武さまは何を着ても、似合いますわ」


 天武は花芯の腕を取り、花芯はいつしか、腕を巻き付けて歩く行為に慣れてきた。柔らかな腕は、暖かかった。

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