幕間 庚申(こうしん)薔薇(ばら)の咲く後宮で

 翠蝶華の胸元に覗く華は、庚申(こうしん)薔薇(ばら)だ。楚の庭園に咲いている。本来であれば花朝節に咲く花だ。紅の花弁は大きく開き、香しい花香を放っている。


「庚申薔薇だ。紅の薔薇は愛の証。あの男それほど……」


 答えを聞かせると、翠蝶華は「では庚氏さまへ」と呟く。

 香桜の脳裏を埋め尽くしている事項は先ほどの男の存在だった。


 天賦の才を垣間見た。天剣を見抜き、素早く引いたあの姿勢。龍に戦く動物に近い。


 ――関を遠く離れ、渭水の川縁を走り、一つの城壁を潜ると、もう咸陽の都だ。民衆の目を引きながら、馬は咸陽の正門に辿り着く。


 月夜に照らされて威風堂々と聳えるは咸陽承后殿――皇宮と共に、相対する宮殿が見えて来た。庚氏の与えられた宮殿は皇宮の一番近くにある。


 各宮殿への立ち入りは、厳格に管理されている。庚氏の宮殿には大きな正門があり、矛を構えた女官が二人、勇ましくも門番に当たっていた。


 皇宮で着替えを済ませた翠蝶華は正装と言われる皇極衣装を着用し、香桜もまた、濃紺の長衣を羽織っての訪問に勤しんだ。

 庚氏は一番正妃に近い徳妃の地位にある。楚から天武に差し出され、和平を買って出た女でもあった。従って、人質としての重要度は高い。


 天武は特に遥媛公主と、庚氏には最大の兵力を割いている。門番が素早く矛を向けた。


「庚氏さまにお届け物がございますの」


 しれっと翠蝶華は門番に言い、すたすたと宮殿の庭園に入り込み、一声を上げた。

 一面に薔薇が植えられている。

 恐らく、楚の庭園を模しているのだ。

 渭水に近い遥媛公主の宮殿と違い、庚氏の宮殿は大層な靜けさだ。


 女ばかりか……と行き交う妃嬪に眼を奪われ、時折ちらっと通る宦官は視界から外した。


 栄華を掴むため、貧しい少年たちは、喜んで青い根を切り落とすのだという。早速女官が門前払いを食らわしてきた。


「主人庚氏は書簡を探しに出ております。お取り次ぎなら、私が」

「そうは参りませんわ。庚氏さま!」


 翠蝶華は声を張り上げ、「いつも居留守をお使いになりますの」と付け加えた。


 ――居留守? どんな貴妃だと驚く香桜の前に、やがてさわさわと衣の音がして、薄い面紗を羽織った庚氏が姿を現した。


 面紗の羽織りは天女の好む羽衣だ。よく見れば、庭園の小さな大水法の彫刻は、すべて天女だ。


 ――そういえば、楚は夏王朝の流れを汲んでいるのだったか……。


 懐かしさに眼を細めた香桜はふと、庚氏がずっと押さえている下腹に眼をやった。


「まあ、秋の夜長に、素敵なお話」


 ほほほ、と笑いを転がして、庚氏は書簡を受け取り、添えられた花に気付いて更にしなやかで、芍薬の如く微笑んだ。


「宮妓の方のお心は、お綺麗ですわね」

「それは、添えられていたものです。私は道すがら預かっただけですわ」

「道すがら?」


 香桜は庚氏を靜かに見つめていた。

 いつまでも向かい合っていたいような、しっとりとした不思議な魅力がある。

 花で誰が差出人かを察したらしく、嬉しそうに書簡を開く庚氏に、翠蝶華もまた切なげな視線を投げている。劉剥を重ねているのだろうか。

 哀しみを堪え、愛をひたすら待つ姿は、尊敬に値する。

 不意に、庚氏の目から涙が滑り落ちた。


「珠羽は私を愛するのが本当に上手な男ですわ」


 翠蝶華が、ぽっと赤面した。


 ――やれやれ。生娘には刺激が強すぎるな。


 だが、次の瞬間、庚氏は書簡を折り畳み、火鉢に投げ入れて、更に薔薇も同じく燃やしてしまった。


「二度とこのような書簡を書かぬよう、説教しなければ。私は、秦に嫁いでいるのですから。分かれば、両国に亀裂が生じます」


 庚氏は下腹を押さえ、嬉しそうに微笑んだ。


(もしやと思ったが……やはり……)


 嬉しそうに庚氏は下腹を摩っている。


 ――天武が種を預けた?


 さきほどから、庚氏は翠蝶華の牽制を試みている。もしも庚氏が子を産めば、后妃となり、後宮は庚氏の手中に落ちる。そうなれば、後宮の状勢はがらりと変わるが、庚氏をすんなり后妃にされるのは、少々困る。庚氏はあくまで、珠羽の妻であらねばならない。

 しかし、庚氏はきっぱりと香桜と翠蝶華に告げたのだ。


「私のお腹には、天武さまとのやや子がおりますのよ」――と。

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