幕間 叡珠羽の急襲

 陽はすっかり高くなった。秋雲は羊毛の如く空に拡がり、夏とは違う落ち着いた陽の光が優しく山肌を照らしていた。

 季節は間もなく紅染月。その後に控えるは、仲秋の満月だ。

 舞を終えた翠蝶華は湖に足を浸し、退屈そうに背中を伸ばして座っていた。

 足先が時折ふっと持ち上がって、飛沫の環を描いては落ちる。

 苛立って、段々に飛沫が大きくなる頃。香桜はようやく翠蝶華の前に姿を現した。連れているものを視認して、驚いた弾みに、翠蝶華は湖に転がり落ちそうになった。

香桜が連れていたのは黄色の大型の虎。山を駆け下りる駒にするためだ。


「まあ! どこから連れて来たのよ。父様が毛皮を目当てで探しているのに見つからないのよ?」


虎の毛皮は高く取引される。漢の桓公の娘の翠蝶華は、価値を知っている。


「寝ていたのを蹴り起こした。ものぐさな虎だ。冬眠には早すぎる。こいつに乗れ。山を駆け下りて、馬を捕まえる。言うことを聞けと言い聞かせたから、大丈夫」


 翠蝶華は完全に毒気を抜かれ、呆然と香桜を心配そうに見上げていた。だが、唇を引いて、おずおずと虎に跨がった。虎の頭を香桜が拳に握った手で、ごん! と叩く。


「虐めないでよ」


 香桜は意地の悪い吊り目を輝かせた。


「調教だよ。全く、言うことを聞かない」

「さっき、貴方、言うことを聞かせたと言ったわ。ほら、怯えてしまったわ。よーしよし。大丈夫」


 虎は少しだけ唸るものの、翠蝶華が撫でると、大人しく背に乗せるために座り込んだ。しゃがみ込んだ香桜には、虎が牙を剥き出しにして、唸りを上げた。


「おまえ、駆け下りて、一緒に麓で待っていろ。暴れて落としたりしたら、龍の餌だ」


 言いながら、金の瞳で睨むと、虎は猫になった。

 ようやく香桜の怖さを感じ取ったらしく。前足で顔を洗って従順の意志を伝えてきた。


「よし。しっかり首に掴まれ。そうだ。この虎は劉剥と思えばいいのではないか」

「――こんなに綺麗ではないわよ。馬の鬣のほうが合っているわ」


 劉剥の悪口を言えるくらいには、翠蝶華の心は回復した。眼が合うと、肩を震わせて、微笑んで見せた。



「よし、行け!」



 翠蝶華を乗せ、雄々しく山を駆け下りる虎を見送り、香桜も高く跳んだ。

先ほどの驚いた表情から、ようやく笑顔を見せた翠蝶華に、香桜は少しだけ良心の呵責を感じ始める。


 ――翠蝶華には、貴人の悪戯は言えない。劉剥も、騙し続けるしかない。全く、えらい悪戯を。


 しかし、劉剥は后戚が現れた理由など、聞いても来なかった。本当に豪快な男だ。

 見下ろした山の下には、陵墓造営地が見える。土を山にし、削り固める版築という方法で作られているのは、どうやら城壁のようだ。


 ――天武はこの場所に何を作ろうと言うのだ……。


 空中で動きを止め、眼を向けると、朝早くから鞭を揮われ、縛られて、連なって山地に向かう罪人たちが見えた。これから、石の切り出しに向かうのだ。

 更に天を仰ぐと、黄金色の龍の雲気が渦巻いている。劉剥から立ち昇る雲気は罪人たちを護るかの如く、拡がってゆく。遠くから、また運ばれてきた一陣が見える。


「……逃げるわけにはいかない、か……」


 香桜の姿はあっという間に、山麓から消え、残された猛獣たちがただ、小さく唸り声を上げて、香桜を探していた。

 虎を逃がし、馬を見つけて翠蝶華の様子を窺う。


「翠蝶華、咸陽へ戻ろう」


 翠蝶華は空を見上げて頷いた。瞳には、先程までなかった強い光が宿っている。

雲の合間から金の面紗のような光が地上を照らしていた。

合間に、うっすらと龍が見える。否、龍のような雲気、だ。

無限に拡がる龍の姿は二度と、虐げられる謂われはない、

 劉剥の天龍の雲気は、見るものを従わせるほどに膨れあがっていた。


「――私なら、あの男たちを助け出せる……わたしなら、龍を手にできるわ」  



 香桜は無表情で翠蝶華の呟きを聞いていたが、やがて咸陽を目指して、馬の脇腹を思い切り蹴り込んだ。



           *


馬を走らせて半時もすれば国境にある函谷関だ。

 馬から飛び降りて、香桜は辺りを見回し、歩き回った。まるで道しるべの如く、鎧や篭手が地面に落ちている。亡骸だ。投げ出された風景は不気味ささえ思わせる。


 ――馬の蹄の音がする。


 瞬間、香桜は跳躍し、驚く翠蝶華に構わず、馬に飛び乗った。翠蝶華の前で手綱を手に巻き付け、鐙のない胴体を爪先で蹴り入れた。


「翠蝶華、しっかり俺の腰に腕を巻き付けて」




 鬱蒼とした木々が走破の震動で揺れ、木の葉を散らしてゆく。

 香桜の操る馬は、関に突っ込んだ。渭河と合流する黄河の最後の地点に位置する函谷関は、かつての秦王が、東方侵入に備え、建築した楼閣二層の関。



「きゃあああああ」



 背中で聞こえる翠蝶華の盛大な悲鳴に笑いつつ、香桜は馬を止めた。

 黒い馬に乗った将が一人、楼閣の前で、血濡れた剣を振り、鞘に納めていた。


「おまえは……秦の兵ではないな」


 低くも有り、高くもある声。翠蝶華が剣の血を見て、更に背中にしがみついた。


「理由あって、秦に与している。名を香桜。向かってくるなら、容赦はしない」


 ずっと腰に下げたままの剣を引き抜いた瞬間、相手の男は馬を引き、距離を図った。

 天剣だ。地上の剣とは雲泥の差の。


「ほう。この天剣の鋭さが分かる? 魂を刈り取られたくなければ、去るがいい」


 すいっと男の正面に廻り、首に剣を鋭く突きつける。


「さァ……どうする?」


ニィと笑ってやると、男は靜かに剣を納め、怒り紛れに獅子吼した。


「愛する女に会いに来て、何が悪い! 咎められたので、秦兵を斬ったまでだ」


 男は悔しそうに唇を噛み締め、額に巻いた布を乱雑に引き下ろし、顔を見せた。

生真面目そうな、しかし戦いにそぐわないほど、目元は優しげで、全体的に柔和な雰囲気があった。

 何より、躰が大きい。香桜の身長を悠に超える。だが、収まった双眸の滾りはまるで爆炎だ。靜かな顔立ちの中で、唯一の激しさを露見させている。


「咸陽の後宮に、お知り合いがいますの?」


 気丈な翠蝶華の声が背中から響き、ふと、馬が揺れた。剣舞の要領で、翠蝶華が空中に躍り出、着地したのだ。舞い降りた姿に、男は少し驚いた。


「私は咸陽の宮妓ですわ。後宮への踏み込みは不可――お取り次ぎなら、致しましてよ」

「では……楚の庚氏妃に」


 男は小さな書簡と、華を添えて差し出し、無言で馬を引き、走って行った。

 翠蝶華は黙って預かりものを胸に仕舞うと、瞳を虚空に向けてみせた。


「名を聞きませんでしたわ」


 答えながら、香桜は更に倒れた兵士に問いかけている。


「恐らく、庚氏の楚の夫、叡珠羽だ……先を急ごう。陽が傾く。被害は? 死傷者は……」


「およそ、百人です。黒い馬で疾走してきて、あっという間に兵士たちは倒れました。将が応戦しようとした刻には、姿は遠く、楼閣を走り去ったのです。秦の関には、絶対に他国の将を入れるなと言いつかっております。名を明かさない上、武器を渡せと言ったら、あっという間に兵を斬られたのです。大量の兵が逃げました」


「なるほど……それで、この惨状……」


香桜は無残に崩れた兵の一角を睨んだ。


 道すがら、落ちていた鎧と剣は逃げた兵士のものだったのだ。

王の天武が知れば、一族郎党の反逆と見なされ、処刑も辞さない有様だ。

 向こうではせっせと鎧を拾う兵の姿もある。見た顔だ。


――天武が呼びつける警備の中にいた気がする。


 足を切られているのか、片足を引きづり、足篭手は片方外れたまま、ぶら下がっている。眼を凝らして見れば、壁際には叩きつけられた格好で死んでいる兵の姿もあった。


 楼閣が血で染まっていた。馬が蹄を上げているのに気がついた。

無情にも首を切られた兵士の血は、流れ出して、馬の足を濡らしていた。



「たった一人で百人斬り殺しただと? 悪鬼か……あの男……」



胸元の系譜が揺れ始めた――。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る