幕間 天女の沐浴、赤と黒の舞

 泥だらけで眠っている翠蝶華をしっかりと抱きかかえ、香桜は、霊峰を目指した。


 ――燕の霊峰、九嵕山。


 香桜は手をふるい、霧を払うと、山肌を駆け上る。


 やがて源林に辿り着いた。無数の虫たちが蠢いているのを眼で睨むと、生き物たちは道を開け始める。龍の気を感じた猛獣たちも、大人しく手足を揃え、小さくなった。


「少し邪魔をする。さあ、退け」


 くうん、と猛獣たちは、のそのそと樹林に戻ってゆく。

 翠蝶華を担ぎ、木々を足で蹴り倒して、拓けた視界に眼を細めた。

 翠玉色の湖が拡がっている。香桜は眠っている翠蝶華を抱き、足を水面に浸し、衣装を濡らしながら、腰まで浸かった。

 抱き上げたままの翠蝶華をそっと湖に下ろす。水は冷たいが、天女が沐浴を好んだ湖だ。

 そっと手で水を掬い、頬の泥に続いて、指先、腕……一つ一つの汚れを清めてやる。水音だけが山奥に響く。


 ――と、翠蝶華の瞼が少しだけ痙攣し始めた。


 広さのある湖に朝日が反射している。朝の光は誰にも優しく降り注ぐ。ゆっくりと黒檀の瞳が開いてゆく。生まれたての雛のような、あどけない少女の表情だ。

 翠蝶華は怪訝そうに何度も瞬きをして、覗き込む香桜の龍眼をまっすぐに見つめた。翠蝶華の煌めく黒檀の瞳に、黄金の龍が眩しく映っている。白さはなくとも、小麦色の肌はさわり心地は悪くない。


「咸陽に戻る前に寄り道した。泥だらけだったからね」

「……泥……なぜ……あ……」


 ぼんやりとした頭を押さえ、翠蝶華は首を傾げた。眠の奏は、記憶をあやふやにする。


「香桜さま……どうして」

「香桜でいい。さまは好きじゃない。そんな愁傷な女には見えぬよ。天武にする仕草からは想像できないな」


 ぱしゃん。と水を掬って、まだこびり付いている泥を手で洗い流し、解れたままの髪に透過する水を掛けた。美しかった黒髪は泥で編み込まれ、固くなってしまい、無残に千切れた髪飾りが風に揺れている。丁寧に擦ってやり、元のしなやかな黒髪に戻るまでは少々の時間を要した。


 翠蝶華は無言で自分の貴妃服の紐を緩め、染められた螺鈿模様の帯を外し、中の下着を湖の中に落とし、肩から長衣を滑らせて、見事な細腰を露わにして見せた。

 剣舞の宮妓の翠蝶華の腰つきは、貴妃以上に細く、艶やかだ。

 豊かとは言いにくい双丘が、ふるると揺れている。上を向いている。先端は桃の花芯を想わせる。


 服を落とした翠蝶華の耳飾が朝陽を吸い込み、赤く煌めいている。

 禊ぎの要領で、翠蝶華は沐浴を始めた。下半身を湖に浸からせたまま、香桜が後から翠蝶華を抱き締め、顎を上向かせ、唇を触れさせた。瞬間、激しい殴打音を感じた。


「――さては、生娘?」


 目の前で翠蝶華は赤面し、見事な婉曲の腰を少しだけ揺らして見せる。

 返答を拒む仕草の愛らしさに香桜は笑って、赤くなった頬を晒し、空を見上げた。

 ――素晴らしく、よい朝だ。

 翠蝶華が躰を清める音は、美しい早朝に軽やかに響いては消える。

 翠蝶華は丁寧に服を洗い、太陽に翳し、沈んだ帯を見つける頃には、死臭も、陵墓の土も綺麗に姿を消していた。

 水遊びを終えた翠蝶華は、濡れた服を胸元に抱え、涙目で香桜を睨んだ。


「はいはい、後を向くから着替えをどうぞ。と言っても、風邪を引く。俺の上着を貸そう。腰紐で縛ればなんとかなる」


 天龍の入った長袍を脱ぎ、翠蝶華に渡した。はだけた胸に翠蝶華は頬を赤くする。


「男って、なぜにはしたないのかしら……お、お借りしますわね」


 下に着る長衣だけは何とか身につけ、香桜の濃紺の長袍を羽織り、碧玉色の帯を締める。桃の頬をさせて、くるりと何度も回って見せた。


「できましたわ。香桜さま。お礼に一差し舞って宜しいかしら」

「どうぞ」


 待ちきれなかったように、黒と赤の衣装がくるくると回る。


 ――俺に舞うとは建前。劉剥への想いを込めているのだろうが。


 翠蝶華は剣を揮う度、涙を横流しにして、水飛沫を上げている。


 泣けば、いい。泣く行為だけが、心に秘めた哀しみを薄くのばしてゆく。


「しばらく、独りにしておくよ、翠蝶華」


 香桜は聞こえるか聞こえないかで呟き、源林に姿を消した。

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