幕間 これが、人間の短い生――

         *

 陵墓の上にも秋風は同じく吹く。

 雨は浄化の雨だ。

 抱擁したまま動かない二人に、一歩一歩、近づいてゆく。

 翠蝶華が腕の中で頭を何度も小さく振って見せた。


「俺を覚えているか」


 陵墓の中央で、人形の如く翠蝶華を抱き締めている腕を緩め、劉剥が顔を上げて見せる。


「ようやく己を取り戻したな、劉剥よ」


 香桜は胸元から横笛を出すと、高く、夜空に向かって奏して見せる。

 コテン、と翠蝶華の頭が擡げられ、龍が天で咆吼した。


「后戚! てめえ、何しやがる」


 横笛を口から外し、香桜は優しく告げた。


「眠らせただけだ。心配は要らぬ。おまえも逃げろ」


 劉剥は一度だけ翠蝶華の頭を撫でると、すぐに離れ、驪山に立ち、見渡した。

 後姿が、燕の焼けた兵士を見つめていた天武に重なる。後悔が増えても、今更と訴える男の背中だ。棘は無数に突き出てゆき、いつか、丸くなる。棘で増えた心を丸くするには、棘を増やし続けるしかない。天武と劉剥は知っているのだ。自身を切り刻む必要を。


「劉剥? 俺は逃げろと言っているのだが」

「俺は人夫を、すべて逃がすまでは、逃げねえよ」


 決意の籠もった口調を聞き、何故か香桜は安堵を覚える。何となく、劉剥はそうあって欲しい。言えぬ願いをそっと抱いた後で、やにわに聞いた。

 実は後悔うんぬんより気になっている事項がある。

 好色の貴人ではないが、てっきり劉剥は此処で翠蝶華を死の淵で、そそり立った男根で乱暴に貫くと思って密かに愉しんでいたのだ。

 もし、相手を后戚と思っているというのなら、不思議はない。

 実際に、劉剥は生死に晒され、猛っていた。天龍は劉剥の男気に導かれ、内から這い出たに等しい。生きるために、己の女を求めた。劉剥の天龍は、常に后戚への愛のために、向けられる。天武と違い、劉剥には陰陽を信じ、躊躇する理由はない。


 ――貴人。なくした瞳も気になる。自身で刳り抜いた? 誰のために?


 竜眼を捧げる時――それは、絶対服従の証だ。


(蛟を調べる必要がありそうだな……そういえば)


 氷華も気になる。氷を操る仙人……。


 人間界だけではなかった。華仙界も揺れ動く予感がする。


 香桜は思考を止めた。


(今は劉剥だ。貴人は不老不死の仙人。いざとなれば、どうとでもなる)


「なぜ、龍を舞い上がらせたにも拘わらず、后戚を抱かなかった?」


 劉剥は眼球を大きくし、月を見上げ、口角をくっと上げた。立てた片膝に腕を置き、肩を震わせ始める。


「そうだよな! はははははははは。龍様のご期待に応えらんねえで、そりゃ、悪ぃな」


 劉剥は一頻り笑いを腹に収めると、愛おしそうに翠蝶華を見つめた。眠っている頬を何度も何度も泥の手が包み込む。

 翠蝶華はきっと、自分には届かないと分かっていながら、劉剥の激しい愛し方が欲しいのだろう。


「あんたも男なら、わかんだろ。感動し過ぎると、制御が聞かなくなる……それに、あの綺麗な面を泥に押しつけてまで欲しいとは思わなかっただけだ」


 香桜は地獄を見回し、劉剥に向き直った。劉剥はへっと笑って鼻を擦った。


「逃げる? 莫迦ぁ言ってんじゃねえよ。龍様」


 劉剥は靜かに地を指した。


「そいつの顔、ざっくり切れてんだろ。その隣の男も、更に向こうに倒れた男も……全員に俺が切りつけた。俺は華陰の仲間だったさ。秦の王が来たとき、実際に俺ぁ覚悟した。一矢を報いて、王様に切られる覚悟をな。だからあの時、馬で突っ込んでやったんだ。だが、王さまは俺を殺せなかった」


 香桜は劉剥の次なる言葉を予想して、静かに劉剥を瞳に映した。


「そう。俺は、仲間が一人でもこの地獄で生きているんなら、一緒にここで生きるべきだ。こいつらをこんな地獄に叩き落として、のうのうと帰れば、后戚にどやされ、尻を叩かれちまう」


 香桜の吊り目も思わず嫋やかになる話に靜かに声もなく頷き、寝込んだままの翠蝶華を抱き上げて、背中を向けた。


「では、おまえの戦いぶりを見ていてやろう」


 目頭が熱くなった。



 ――見事だ。……見事だ。これが、人間の短い生か――と。

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