幕間 泥の中の逢瀬

 翠蝶華を抱き上げ、夜の平野を走り続けると、やがて、渭水の麓の平野が見えて来た。秋の夜の水は、静かに寄せては返している。

 陵墓……正式名を、驪山陵。燕と秦の境目にある。秦の王のために、日夜に亘って罪人が投入される巨大墳墓の造営地だ。

 深夜につき、過酷な山地からの土壌の切り出し作業は停止している。雨避けの樋もない。暗がりで、時折もぞもぞと黒い塊が動いている。

 罪人たちが菌の如く密集し、固まって休んでいるのだ。

 土塊と死体の見分けが付かない土の山。何度となく見ても、言葉は一つしか浮かばない。


 ――地獄絵図――。


「……ここは……なんですの……うぇっ……」


 翠蝶華は香桜が下ろすや否や、すぐに口元を手で覆って屈み込んだ。

 嘔吐し続ける頭上では、ふと、月を覆っていた雲が横に流れて、一縷の月光が射した。

 ざく…ざく…。

 土を掘り返す音が、規則正しく響いている。よく見れば、燃え尽きたような木の板がそこかしこに建てられており、月明かりの下、一人の土まみれの男が何度も行き来していた。

 墓守の擦り切れた服に、死の臭いをこびり付かせた表情。死体の合間から、団子を見つけては、震える手で口にして呑み込む。飢えている。

 双眸はぎらぎらと獣の如く剥き出しにされ、泥だらけの髪は凝固している。

 香桜はついと顎を上げて見せる。信じられないと、翠蝶華は香桜を仰ぎ見た。


「おまえの探している男だよ、翠蝶華」


 翠蝶華は、呆然と掠れ声で呟いたのち、支え、立っていた後方の香桜に倒れ込みかけた。女には凄絶あまりある光景だ。

 朦朧としたまま、墓の山を見つめて、翠蝶華は首を振った。

 走り寄ればあっという間に触れられる距離だ。龍の女だと言い切る強さがあった后戚ならば恐らく、飛びつく。


「あんな醜い男、知りません……悪鬼ですわ……」


 震える声で、翠蝶華は言い、袖で口を覆った。だが、また込み上げて、胃液全部を吐き出してしまった。

 嗚咽に劉剥が気付いたが、正気ではない瞳は、素通りし、背中を丸め、徘徊する如く、のろのろと陵墓を歩んでいる。

 翠蝶華は分かっている。幽鬼に成り代わった男こそが、探し求めた男の姿だと。

 確かに、李劉剥は面変わりしていた。溌剌としていた頬は、幽鬼の如く不気味に痩せこけ、餓鬼の如く瞳は血走り。


「俺は、ある男と酒を飲んだ。大層、気っ風のいい男でね。そいつと飲んだ酒は、最高の味だった。顔に同じような傷が」


 咳き込みながら、翠蝶華は吐き捨てる。


「知りませんわと言ってますでしょ! どうして見せるの!」

「それは悪かった。では、崋山に埋まって死んだ。でなければ、天武が連れて来たはず。そうだ、やつは死んだのだな」


 翠蝶華は唾液を垂らした口元のまま、顔を上げた。

 香桜は、しゃがみ込んで、袖で口元を拭ってやった。

 翠蝶華の涙は濁流の如く流れ、悲鳴のような泣き声が陵墓に響き渡って消えた。

 合間に微かに聞こえる琵琶の音に、香桜の眉がぴくりと動いた。


 ――近くに貴人がいる。


 香桜は翠蝶華の肩を少しだけ、遠ざけた。


「少し離れてくれるか。大丈夫。すぐに戻る。すぐにだ」

「嫌ですわ! こんな場所に置き去りにしたら、恨むから」


 翠蝶華が金切り声を上げた瞬間、徘徊していた劉剥の足が止まった。

 爪先が一つの骸を踏み、翠蝶華にゆっくりと向けられる。

 翠蝶華は瞳を大きく揺らがせ、恐怖で見開いたまま、動かなくなった。


「……戚……?」


 聞こえた声が発した名に、翠蝶華の頬が一際びくっと大きく震えるのが分かる。

 劉剥は泥だらけの顔を拭い、しっかりと大地を踏みしめ、翠蝶華に近づこうとする。翠蝶華の左足が後に引かれるのを、理解できないと、軽く笑った。


「なぜ、逃げる……そうか、死体が怖いのか。……我慢してくんねえかな。こいつら、仲間だからよ。ただ、死んでるだけだ」


 赤い蝶が墓標を飛び回るかのよう。琵琶の音が鳴り響く。性懲りもなく掻き乱そうという魂胆だろう。

 腹に据えかねた香桜は短く一喝した。


「貴人! いるのは分かっている! 俺に逆らうか!」


 嘲笑いの如く、琵琶の音は一層きゅんと高く、陵墓に響いている。

 香桜が空を見渡した瞬間、陵墓の両端に植えられた木々が大きく揺れ、



「いやぁぁぁぁぁ!」



 同時に翠蝶華が悲鳴を上げた。

 劉剥は無我夢中で翠蝶華を抱き締めていた。翠蝶華は、泥まみれの手で、頬を触られ、長衣をまさぐられ、泥に倒れ込んだのだ。

 真横の死体を見つけた眼が、ヒッと硬直した。劉剥の手は、狂ったように翠蝶華を乱してゆこうとする。指先が倒れた骸に触れぬよう、小さく拳を作って、皮肉にも、劉剥の腕の中で躰を震わせている。

 貴人が笑いを堪えきれない様子で、肩を揺らした。


「劉剥には、后戚に見えている」


 姿を現した貴人は枝を揺らし、楽しそうに琵琶を爪弾いている。


「劉剥は実に面白い。単純なほど、わたしの琵琶に反応する――さっきまで死の煩悶も忘れるほど、呆けてたのに、女を欲すれば、この通りか。飽きぬな……はは」

「貴人……! 術を解け!」

「怒鳴ってないで空を」


 香桜は空を見上げ、驚愕で瞳を瞠る。劉剥の背中から、封じたはずの黄金の天龍が雲気を巻き上げていた。腕に閉じ込められた翠蝶華も、おそるおそる空を見上げている。


 涙混じりの口づけは殺気を含んでいる。その度に龍は、大きく空に飛翔した。


「なぜ……俺は天龍を封じたはずだ……天武に見つからぬよう……」

「愛する女を、欲望で貫くつもりだからさ。はん、天帝さまに睨まれたくらいじゃ……いて」


 貴人がふいに顔を顰めて、片手で顔の左半分を強く押さえて呻いて見せた。飛び降りたついでに、隠れていた髪が僅かに指先で押し上げられ、香桜は貴人の顔半分の異変に気がついた。


 龍族の瞳は世界の呪を通す玉だ。龍族は眼が要と言っていい。貴人も同じだった。蛟と言えど、龍族の血を持つ仙人だ。


 抵抗する左腕を強く掴み、顔から引き剥がした。琵琶が、ごとんと落ちる。


 ――ぽっかりと、眼窩だけが残された血溜まりの眼が其処にあった。


「龍族の命に等しい玉をどうした貴人! いつからだ!」


 貴人は、ない瞳に血を溜めたまま、慟哭した。


「おまえには関係がない! ――興醒めだ」


 言われて二人を見やると、翠蝶華は土の上で、無数に転がった死体に震えながらも劉剥に腕を回している。貴人は姿を消した。

 あまつさえ、足を少しだけ開いて、自分から、受け入れようとしているのだ。

 ――あの気高き蝶が。なんという甘えたような表情だ。

 獣の如く鼻を劉剥に擦りつけ、男の臭いに揉まれながらも、頬をすり寄せて涙を浮かべている。天武が見たら、驚きと衝撃で剣を落とし、失望に立ち尽くすであろう。

 熱に浮かされた翠蝶華の声が途切れ途切れに響いて消える。


「私、この龍が見たかった……愛おしい龍……生きていたの……そう……!」


 恍惚さえ感じさせるような声音で、翠蝶華は囁き、きつく腕を巻き付けている。

 天龍と同じ翡翠のような劉剥の瞳は、愛の前で、再び光を取り戻していた。


「俺はこの地獄で生きてやる! 人を殺しても、排泄物を喰らっても、だ!」


 全身、すべての鮮血が噴き出すような、力強い叫びだった。


「だが、おまえを地獄に連れてくにゃ、綺麗過ぎらぁ。悪かったな……ここで滅茶苦茶やる体力も、精力もねえんだよ、実は」


 抱き締めていた翠蝶華を手放し、劉剥はどかっと座り込んだ。

 仲間の骸の山を見つめた瞳は僅かに潤んでいる。崩れた土塊を掴み、粉砕してみせる。土はぱらぱらと、劉剥の手からこぼれ落ちた。


「秦の王様に逆らった顛末が、これよ。みんな虫けらにされちまった。最後には自分らが埋められるための墓穴を掘る。でもな。后戚。こんなの、地獄じゃねえんだよ……」


 優しさを充たすような表情で、劉剥は汚れた手で、翠蝶華の頭を撫でる。

 翠蝶華は否定せずに、靜かに聞いている。もしや、恐怖でおかしくなったのかと、香桜は柄にもなく心配した。


 だが、翠蝶華の瞳は、ただ、劉剥に吸い付き、向いていた。劉剥の一挙一動を見逃すまいと、充血させるほどに瞬きも忘れ。

 何という女だ。名を呼ばれず。見られもせず。存在を消されても。


(傍にいたいというのか……)


 美しかった貴妃服は見る影もなく、泥を吸ったせいで、黒ずんで見える。黒髪は解れ、乾き始めた泥が口元まで這っていた。

 香桜は無意識に手を上げ、翡翠を翳す。たちまち雨が降り出し、激しくなった。

 豪雨に滑る腕を劉剥が捕まえた。腕に引き込まれて、ひくっと喉が震えるのが分かる。

 劉剥の眼は、ただ、翠蝶華を通し、后戚だけを見ているのだ。


 貴人ごときの掛けたまやかしを天帝の香桜が解くのは容易い。だが。


 ――教えないほうが良さそうだ。天龍を封じる手段は、もはや皆無。いずれは天武と相まみえる瞬間を迎える。劉剥は生き抜いてやると言った。それで充分だ。

 この男は生き抜く。たとえ死体を喰らっても、ただ一人の女のために。

 いずれは天武を追い越し、龍の子供の役目を全うする。


 抱き締められ、朱唇を奪われた翠蝶華の瞳から涙が溢れた。


 雨が止んでも、翠蝶華の流した織姫の涙の雨――洒涙雨は、しばらく止まなかった。


 翠蝶華のただ純粋な想いに導かれたのか、香桜の頬にも、一筋だけ滴が垂れた。

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