幕間 翠蝶華、天帝に攫われる

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 咸陽承后殿、遥媛公主の宮殿の回廊にて。香桜の髪が、夜に戦いだ。

 秦の首都・咸陽――

 主人のいない皇宮、及び後宮は当然ながら、無法地帯だ。

 当の天武はと言うと、数多の上級貴妃を差し置いて、楚の旅に、遠ざけたはずの花芯妃を同行させた。

 殷徳その他、今や後宮――咸陽承后殿には名高い妃嬪が集まっている。

 後ろ盾として暗躍する男たちは、貴妃たちのご機嫌取りの絶好の機会だ。 

 後宮は闇の中で、秩序を崩し始めていた。

 天武の予想通り、娘、花芯を遠くに連れ去られた奔起は公務を遂行できなかった。

 一方、翠蝶華は翠蝶華で、華やかな宴の添え物としての日々を送っている。

 機会を狙って遥媛公主に頼み込んで、回廊で待つこと一刻。

 折扇を手に、剣舞用の長剣を手にした翠蝶華が現れた。

 無作為に伸ばした香桜の足に、翠蝶華は見事に引っかかった。黒髪が艶やかに舞い上がる。紅の長衣が翻る様をにやついて見ていたが、さすがは剣舞の使い手。着地するなり、翠蝶華は声を張り上た。

「何をなさるの! 子供の悪戯! 用事なら、声を掛けたらいかが?」

「耳飾が外れそうだよ」

「まあ! ごまかして!」

 相変わらずの短気さを発揮しながら翠蝶華は外れかけた耳飾を指で弄って見せる。

「動かないで」

 香桜は紅水晶の耳飾を指で抓んだ。――天界のものだ。

 翠蝶華も気がついたらしく、香桜の左耳に揺れている翡翠の龍に眼を奪われている。

「――見事な飾ですわね……龍が生きているみたい」

「貴女の耳飾も美しい細工だな。李劉剥からの結納品?」

 かっと翠蝶華は耳まで紅潮させた。花芯と違って、一秒で顔に出る。

 ――なるほど、愁天武が好みそうな分かりやすさだ。

 試しに頬を指でなぞってやると、翠蝶華はますますバツが悪そうに顔を背けた。

 肩が小刻みに震えているのに気がついて、手を止めた。

「見せたいものがあった。天武がいると、俺は動きにくい」

「まあ。随分と自由にされているように見えますけれど」

 翠蝶華は憎まれ口を叩きながらも、香桜をちらちらと見て、ぽつりと呟いた。

「同じ男の方でも、随分と違いますものね。香桜さまからは、恐ろしいほどの龍の雲気を感じますわ」

 懐かしがるような口調に、一瞬で劉剥を重ねているのが分かる。

「龍の気がわかる?」

「ええ。どこにいても、分かるくらいの、溌剌とした龍の気。しかし、今は何処にも感じられない。愚かな劉剥は、天武に殺された」

 落胆しながら、両手を拳にし、翠蝶華は瞳に溢れた涙を肩で拭うと、翠蝶華は短く呟いて背中を向けた。

「失礼。次の舞がありますもので」

「生きてるけど?」

 香桜は縁に上半身を凭れ掛けさせ、流し目で翠蝶華を見やった。

「貴女の探してる李劉剥は、生きてると言ったんだ」

 翠蝶華は聞いた刹那、大きく首を振って性急に否定して見せた。

「有り得ませんわ! 華陰の戦いに参加した兵から、聞きましたわ。天武さま……いえ、天武は、罪のない遊侠たちを根こそぎ刈り取ったと。あまつさえ、焼き払ったと! 燕の惨たらしい焼かれた街を見たわ……あの男は、約束など護る気もなかったのよ……」

 はらはらと頬に涙を落とし、翠蝶華が唇を噛んだ。

「私は、何があろうと、あの男を許さない……! 今度、顔を見たら、目の前で首を掻ききって、鮮血をぶちまけてやるつもりよ!」

 ――火花のような女……しかし激しすぎて、好みにはほど遠い。

 だが、翠蝶華は、なにゆえか、天武の前では自分を恥じている。いや、本人がいなくとも、話の中で、恥じるのだ。

「劉剥が生きているなら……どうして連れて来ないの……」

 ほら。やはり何だかんだで、罵りつつも、天武からの接触を待っている。

「天武は、絶対に連れて来ると言ったのよ! ならば、貴妃になるとまで言った。なのに、約束を破って……声も掛けて来ない! やけくそで踊るしかないじゃない」

 翠蝶華は腰に下げた短剣を抜き、大きく弧を描いて見せた。

 切っ先を指で押さえ、香桜は子供に言い聞かせるかの如く、喋りを遅めて見せる。

「約束を破ったわけじゃない。天武は劉剥を殺せたのに、殺さなかった。逢いたければ逢わせてやる。と言っても、歴史上、逢って貰わねば困るのだけれど」

「何を言っているのかわからないわ」

 翠蝶華の剣が、すいと引かれ、その腕は靜かに下ろされた。

 紅の長衣の袖が大きく魚の尾の如く揺れては、眼に焼き付く。

「でも、龍気が感じられない。いつだって、劉剥の上には蛟の龍が見えた。あれは劉剥の命」

「違うな。命ではなく、一途な想いだ。それは貴女への想いではない」

 翠蝶華が唇を噛み締める。綺麗な薔薇の唇は、すっかり傷だらけになってしまった。

 これで翠蝶華は后戚を許さず、いつか劉剥の亡き後には、美しい四肢を裂く。

 ――この女の愛は、劉剥から離れてはならない。

 今頃、閉じたままの系譜の中では、翠蝶華の文字が大きく蠢いているに違いない。

「后戚……! そう。劉剥は、あの女への想いを、天龍に託してたの……っ!あの龍は、私のために在ってしかるべきものよ……!」

 香桜は翠蝶華の両肩を掴んだ。

「きみはいずれ、劉剥とともに時代を動かす。天武などに心を揺るがせる必要はない」

 軽妙洒脱な口調を天帝の声音に戻して、香桜は翠蝶華の腕を引いた。

「覚悟は良いか」

 まさか、翡翠の龍を使うわけには行かない。髪の簪を引き抜いた翠蝶華を横抱きにして、夜の風を翔る。

「捕まっていろ。跳ぶから」

「あなた単なる笛吹きじゃない。私の考えが当たっていれば」

 翠蝶華の唇に人差し指を当てて、香桜は、ふっと笑った。

 ――天武などに、心を揺るがせる必要はない? 先ほど、そんな言葉を吐いたか?

 深入りしすぎだ、天帝が地上の人間に未来を教えてはならない。それとも。

 系譜に操られているのか? 天帝の俺すらも、運命は呑み込もうとするのか。

 ――面白い。ならば、俺の名も、系譜に残るのか。

 歴史の塵芥となり得るのなら、こんなに嬉しい話はないか。

 街を離れると、篝火は進むごとに減り、香桜の心情は誰にも知られずに、闇に葬られてゆく。合わせて、夜は濃く、闇は深くなりつつあった。

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