楚の猛将虎 庚氏の策謀
風が足下の砂を舞い上がらせた。土の城は陽を浴びて、雄大に輝いている。
「まあ、こちらも、それなりの用意はしておりますがね」
宮殿の内部、城壁にも兵が溢れている現状に天武は眉を寄せた。城壁から楼閣から、楚の兵がずらりと並んで威嚇している。
――喧嘩を売るなら、買うしかあるまい。
短気な天武は兵たちを睨み上げた。気付いた男が優雅な口調で兵たちに下がるよう示唆すると、兵たちは弓矢の構えを即座に止めた。
昭関の時と同じ。兵たちは波が引くように姿を消してゆく。
「ああ、気になさらず。兵たちは常時配置しているので」
「叡項賴に会いに来たのだが」
「項賴は趙に出かけておられますよ。庚氏から聞いていませんか? 前楚王の娘が趙に嫁いでおられる。秦との同盟のすぐ後に、趙からも打診がありまして、頗る良好な……いかがされたか、秦の王?」
――やられた。庚氏……。
天武は今頃後宮で、企みの成功を顔に浮かべた満面の笑みで空を見上げているであろう貴妃を思い浮かべた。何という悪女だ。妻にしていた男の気が知れない。
趙と楚の関係が良好だなどと思いもしなかった。知っていれば……いや、これで、趙を攻めるのは難しくなった……。
男は外した冑を兵に預け、馬を引く。
鐙に丁寧に乗せられた脚には、しっかりと足篭手がついている。腰の剣も、立派なものだ。腰に下げた白玉の腰飾。楚の人民にしては飾り立てているほうだ。
そればかりか口調もどことなく白々しいくらい、優雅だ。
城壁に溢れた兵たちは弓矢を構えているが、矢は飛んで来ず、天武たちは城門の前で迎えに整列した兵の合間を進む展開になった。
馬を並べたところで、男が頭を下げてみせる。近くで見ると、なかなか迫力があった。目の色が濃いせいか、ただならぬ眼力を感じる。
「申し遅れました。小職名は捷(しょう)紀(き)と申す。項賴の軍の軍師でございますゆえ。項賴よりすべての事情は聞いております。しかし、女連れとは恐れ入る」
聞いた花芯がふと車から顔を覗かせ、今度は天武をぎょっとさせた。
「私は秦の后妃でございます。楚の皆様には、初めてお目もじいたします。普段、後宮奥におるのも寂しいと思っておりました」
楚の兵が顔を見合わせている。当然だ。庚氏を后妃とすべく、秦に囲っている。花芯は政治を全く理解していない。
「陸睦……。そなたに貴妃の厳しい警護を命じる。それと、水晶を取り上げよ」
腹の中で天武は唸り声を上げ、花芯を睨むと、花芯はまた被り布を深く下げた。
「では、項賴の代理どのに逢うとしよう」
捷紀は可笑しそうに口元を緩めた。
「項賴・珠羽とも、国境沿いにて進軍中でございます。趙との合流で、遊牧民族を討ちに出かけておるのです。宴席を設けますので、しばし、ごゆるりといたしませ」
――留守なら留守と、さっさとそう伝えれば良いではないか。宴席? 娯楽には全く持って心が動かぬ!
目的の叡項賴は国境沿いまで援兵に向かっていた。国境というのは、楚の領土の南端だ。どうやら隣国と兵を合わせて遊牧民族の殲滅に乗り出した。
つまりは楚に戻るのは当面先になる。無駄足を踏んだ。
すべてが庚氏の仕業だと思えてならない。楚王は、御年十歳。わざわざ頭を下げる相手でもない。傀儡だ。
天武は様子を記させた楚についての調査書簡を閉じた。
楚の実際の権利は、叡項賴・叡珠羽の双頭が握っている。総称して、双頭の猛将虎と異名を持つほど強い。
「天武さま! 見てください。澪の寝床をいただきました」
捷紀の采配で、客人として招かれた宮殿の兵舎の中の、厩舎。陸睦は房を断り、厩舎でいいと言い、楚の兵に混じって他の馬の手入れまで、こなして見せた。
藁を美味そうに食べる愛馬の鬣を嬉しそうに手入れしていた陸睦に向かって天武は頷き、時に訊いた。
「時に花芯は、どうした」
「言いつけ通り水晶を取り上げておきました。部屋にて拗ねてます」
「敵国で自分を正妃だなどと。何を教えておるのだ、庚氏は。諍いが絶えぬと言うに。後宮の拡張も見合わせだ」
「あのバカでかい宮を、もっと大きくするんですか!」
陸睦は慌てて口を押さえ、眼を瞑った。
どうやら仕置きの剣を受けるつもりらしいが、敵国で剣など振るえるものではない。
「そなたの悪口は気にならぬ。厭味がない。片目、済まぬな」
天武の手が陸睦の潰れた瞼をゆっくりと撫でた。あどけない片瞳はただ、目の前の主人を映している。まるで忠犬だと、天武は思った。いや、忠狐か。
「もう、宮の名前は決めてある」
陸睦が身を乗り出してきた。
好奇心一杯の狐の顔に、肩すかしを食らった怒りが和らいだ。
「聞きたいか? 信宮だ。信じる宮と書く」
すべての生きるものが何かを信じ切れる場所。目指す世界の理想は高い。その一歩だ。
陸睦の頬が鬼灯の如く輝く。
「それを、俺に?」
「まだ内密だ。宮殿の拡張に関しては、うるさい輩が多いからな」
何度もしつこいくらい、陸睦は頷いた。
厩舎を離れ、与えられた宮を歩く。庚氏が好むような長衣を目にし、天武はふと庚氏を思い出して、唇を噛んだ。
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