楚の猛将虎 数多の王朝と戦い抜いてきた戦国の威厳

 羊の皮で裏打ちされた鎧を陽に反射させ、天武はまっすぐに砦に向かって歩みを進めると、銅剣を抜いて、捧げ、何と、剣を放り投げた。兵たちは騒然となった。

「楚と我が国は戦わぬと協定を結んでいる。切り結ぶ理由はなし。閂を外せ」

 声を朗々と、砦に響き渡らせ、天武は応戦しようとする秦の兵たちを手で止めた。


「良い。様子を見よう」

「ですが、取り返しのつかない事態になりかねません」


 陸睦はきっぱりと言い、勝ち気な眼を相手に向けた。魏の兵士として馴らした陸睦は、天武相手に今や意見をぶつけてくる。馬を並べ緊張していた姿に比べれば、偉い進歩だ。


「花芯の車だけを遠ざければ充分だ。大切な質だからな」


 心なしか声音を和らげながら、天武は命を下し、また砦を睨んだ。

 ――誰の命令だ。嫌がらせにしか思えぬ。

 馬を引き、天武は剣を片手に振り仰いだ……ところで動作を止める。

 ――背筋が戦慄いた。一瞬だけだが、男の顔が女嬙から覗く。

 しっかりとした男の眉、双眸は少し優しげだが、口元は引き締まっており、冑はつけていない。かなりの背丈があるのか、砦から見下ろす兵の中でも、群を抜いて威圧感がある。


 堂々とした姿に、ふと、かつて愚弄して死んでいった燕の男の幻影が重なった。直後、眼の前で、男の首が引っ込んだ。砦を降りた?

 気がつけば、砦の扉は開かれていた。陸睦が首を傾げている。


「進め、と言うことでしょうか」


 ――武器を捨てたお陰か?……試されたのだ。王の器を。

 もう一度しっかり眼を凝らすも、男の影はもう見えない。関所は既に無人になっている。

 兵たちは抜け穴から逃げたのであろう。一糸も乱れぬ統率力だ。

 拾われた剣を再び携帯し、天武は馬を引きながら、兵たちを振り返る。


「これより、楚の首都・郢(えい)に向かう。楚は協定国ゆえ、迎撃の必要はない。遠征ではない。兵に狼藉などさせぬよう、しかと見張れ。楚が我らに怯える理由など、ありはせぬよ」


 将たちがまず頷き、それぞれの隊に戻ってゆく。



〝水晶に不吉な影が過ぎっております――〟



(楚と我が国は庚氏を通じて、確固たる密約がある。何が、不吉なものか)


 花芯の声の幻聴を振り切る如く、天武は楚の首都・郢(えい)に向けて、馬を進めた。


          *


 関所を通り抜けると、目下にすぐに大きな橋が見えてくる。見事な石橋だ。

 中央に宮殿、左右に街の区画を置いている秦と違い、楚は街全体が大きな砦だ。

 河は見当たらない。橋を備えている理由は、敵襲への備えだ。道を細くする工夫で、敵の動きを奪うのだ。――なるほど、四方に関を置いているのか……。

 しかし、行き交う人が多い。四方の関所が開放されている。当然と言えば当然か。


「賑やかですね、天武さま」

 陸睦が周りを見渡し、ぼそりと呟いた。

「そうだな……我らに怯えるような輩もおらぬ。何と堂々とした国か」

「怯える……ですか? 誰も怯えてなどいないと思いますが」


 若い将には無意味な話かと、天武は後方まで馬を下げた。武大師の姿を見つけた。


 武大師は天武が秦を訪れた時から、慣老とともに、天武に仕えている。天武が信頼する姿を、陸睦は羨ましそうに見ていた。


「武大師、後で話がある」

 髭を揺らした古兵が頷いた。天武が古兵に声を潜めるときは、大抵が侵略の話だ。

 陸睦の不安げな視線を感じながら、天武は素知らぬ振りで馬を元の位置、即ち先導隊に進めた。


「何をお話に?」

「大師の眼から見た楚の意見を聞いただけだ」

「俺も、砦っぽい城、凄いと思いますが」


 天武はすぐに会話を打ち切った。


 ――魏上がりの陸睦に肩入れし過ぎる現状は、陸睦を逆に追い込む事態になる。


 秦の古兵の自尊心は高い。今回、花芯をどの兵が護るかでも揉めている。天武に一分でも気に入られようと、古兵たちは新参兵を邪険にしようとするきらいがあった。


 石橋を百頭の馬が渡る光景が面白いのか、民衆が集まってきた。


 秦の民衆は、陵墓作りに駆り出されると怯えて門戸を閉めるが、楚の民衆は好奇心が旺盛だ。


「ああ、どいてどいて、爺さん!」


 馬の行列に興味を示した老人が進み出てきて、陸睦の軍の馬の邪魔をして困らせている。


 石橋を渡りきったところで、天武は馬を止めた。


 近づくほどに、迫力を伝える楚の首都・郢。土壁には一切装飾などはなく、洒落っ気も感じられない。夏朝から、数多の王朝と戦い抜いてきた戦国の威厳が、ここにあった。

 容易く落とせるものではない。


 橋はちょうど王城を結ぶ形に配置されており、渡り切ると、今度は下り坂になった。山を切り開いた盆地らしく、落ち着いた風景が続く。


 また平野を少し登ると、更に城壁を高くした城が見える。そこには馬を引き連れた楚兵が王城を囲っており、進んできた秦の兵と楚の兵は、橋の上で睨み合う格好になった。


 一頭の馬が兵を掻き分けて進んでくるのが見える。飾のない馬だが、手綱に使っている紐には立派な装飾が施されていた。よく見ると、鐙にもそれなりの銀が練り込んである。



「秦の王は残酷で、幾多の都を焼くと聞いておりましたが」


 見ない形の冑を両手で外し、将は顔を覗かせた。目元が濃く、体格は薄い。

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