楚の猛将虎 花芯への良心の呵責は、恐らく生在る限り
種を奪われてから、どこか、こう満たされない。
それだけではない。皇宮の書記の李逵の仕業で、後続部隊の馬がたんまりと書簡を積んでいた状況も、不愉快にさせる理由の一つだった。
敵国で、神経を張り詰めている上で仕事を押しつけられ、大半の書簡は手で割り捨てる決断もできず、積んだ馬の上に縛り付けて、怒りで馬を蹴飛ばした。
慌てて馬を追いかけ、山に消えた兵を睨むと、すべての馬と兵は大人しく厩舎に引き上げていった。
結果、現在の天武の手には、三つの書簡が残っている。
一つは庚氏が例の如く持たせた嫌がらせとも思える、夫の珠羽への愛の書簡だった。丁寧かつ慇懃無礼に夜の事柄を記した挙げ句、最後には「我が夫に宜しくお伝え遊ばせ」と掘られた書簡は、両手で二つに割り、藁の中に放り込んだ。
一つは渭水の宮殿の頓挫と資金繰り。内容的に重要書簡として、大師に預けた。
もう一つは、陵墓作りを自粛しろとの人民からの嘆願書であった。刑罰者の脱走が増えているのだ。
脱走した兵たちは水を求めて、渭水に飛び込む。体力を失ったまま遮二無二、水を飲み、縮んだ胃が耐えきれず、溺死する状態はしばしば目撃されている。遺体が流れ着いて困っているとの嘆願でもある。犯罪者が脱走すれば、食糧を求め、必ずや街を襲う。
陵の建設は終わりが見えない過酷な作業だ。犯罪者に課せるに、ちょうどよい。
女官たちが大きな皿を頭に掲げ、豚やらを乗せて走り去る。宴席の準備が始まっているのだ。
楽に混じり、どおん! という打楽器の音も聞こえてきた。
――庚氏はなぜ、この時期に私を楚へ導いた? 武器の問題だけか?
(駄目だ、読めぬ)
聡明な頭には、天武と同格……それ以上の策略が渦巻いている。
もう二度と油断はするまいと天武は固く両目を伏せた。これが翠蝶華なら、顔に出るため、すぐに先手を打てる。頬がむず痒くなって、天武は僅かに眉を寄せた。今は花芯の問題をどうするかに、焦点を当てた。
*
花芯は、宮殿を与えてはいないものの、爵位は庚氏と同じ、位は賢妃だが、まだ十五にも届いていない。従って説得にも限度が出てくる。
――面倒だ。早急に終わらせよう。
天武は嘆息すると、拗ねたままの背中に問うた。
「私は、庚氏を正妃にするつもりだ」
無言。かと言って、策略があるわけでもない。
「花芯! 私の話を聞いているのか」
「天武さまは私を選ぶ運命ですわ卜占にも出ていますもの」
言葉を叩きつけ、花芯は早口になった。たかが、占い。だが花芯の口調は確信を持ったかのように、強い。
「古代の紛い物の占いか……おまえ、いい加減にしないと、樽に入れて山に捨てるぞ」
ようやく花芯が振り返った。ぼろぼろとよく出る涙だと半ば呆れながら、天武は花芯と見つめ合った。
「嘘は言いません! そ、それに、とある方が言いましたわ! 私は天武さまが食いつくような傾国の美姫になれると」
「傾国の美姫?……大袈裟な。そんな間抜けな口説きをする莫迦は誰だ」
天武の声は、次第に疲労を増してくる。
「そこまで不自由しておらぬ。良いか。今後は、一切、余計な事情を口にせず、にこにこと微笑んでいれば良い!」
平行線になった前で、花芯は強い口調になった。
「後悔しても知りませんわ! 天武さまは私を妻にする。それ以外に、呪われた運命から逃れる術はないの!」
「私が呪われていると?」
今度は押し黙った。小さい肩を両手で掴むと、ほ、と頬が桃色になる。
「浅はかな事実を言うと、密通並びに拐かしの罪で、樽に入れてゴロゴロやるぞ」
古代文書に残っていた処刑方法を適当に言ったのだが、効果があった。花芯は樽でゴロゴロ、で反論をやめた。
「では、もう一度、左のお手を」
花芯は細い指で天武の掌を準えてみせ、その顔つきは変わって行った。幼い唇は大人の女の如く花開き、真摯なあどけない眼は、色っぽさを増している。ちらりと上目遣いで見られた時でさえ、体は素直に反応した。
「証明してごらんに入れましょう。卜占はすべてを視る。虎が見えます。大きな虎。虎は龍に喰われて死すのです。龍はひんやりとしていますわ。冷たい龍が秦の空で激突し、秦は滅びの途を辿る……天地を揺るがす大戦に巻き込まれます。たくさんの花が降っています……私がわかるのは、ここまで。虎と龍の喧嘩には、お気をつけ遊ばせませ」
天武の脳裏で、虎と龍が喧嘩する図が浮かんだ。だが、天高く咆吼する龍と、地に這い続ける虎の慟哭は繋がらず、どうにも迫力がない。
莫迦莫迦しいの一声で、天武は花芯から手を振り払った。花芯は元の少女に戻った。天武は片手で両目の目尻を押さえてみせる。
――一瞬、花芯が至極好みの大人の女に見えたが……やはり、小生意気な小娘だ。
卜占はとうに廃れたはずの、運命数占いで、周王朝の王政を左右したと言われる。
密かに伝わっている密教の中でも、一番タチが悪い。花芯の母も、恐らくは卜占狩りで死んだのだ。
宗教の継承は蠅の繁殖並に激しい。統一の暁には、儒教や群像・占いの類いすべて禁止する必要がありそうだ。むろん、仙術も含めて。
「花芯。特にあの捷紀と言う男には、注意しろ」
注意を促そうとしているのに、花芯はにじり寄って、天武の胸元を覗き込んでいる。
「陸睦に奪われた際、「天武さま! やりました」と叫んでいましたの。天武さま、あれは、母の形見ですわ」
「嫋やかに微笑んでいれば良し。上手くできれば水晶を返してやろう」
「できますわ。そのくらい!」
「しかと聞いたぞ? 裾を踏んで、酒樽になど頭から突っ込まぬようにな」
むっと花芯の頬が膨れた。乾いた笑いを見せて、天武は宮を後にする。
――虎は龍に喰われて死すのです。
(どうして女は無作為に、死ぬだの地獄だの! 死地にて一度戦って見れば良いのだ)
愛してると謀っては、種を掠め取る。無償で愛を告げる優しさはないのかと天武は一心に庚氏への悪口を腹で喚き散らした。
――子供なぞ、要らぬ。
だが、楚の国と秦を結ぶには最高の駒でもある。しかし、命を屠る自分が、命を慈しむなどできるはずがない。
一際ひゅうと強く吹いた冷風が、肌に痛みを与えてくる。見え隠れする腕を何度か摩擦して暖めた。
(しかし、初秋と言うに。この寒さは、なにごとか)
凍った山が、眼の端に映った。おかしな山だ。先端が凍っているだけでなく、山全体が氷山に変わっている。雨も、雪も、霙も、雹も見当たらない。
冷ややかな空気は、霊山にも近いものがある。
――氷の仙人? もしや古の氷龍でも棲んでいるのか。
天武は、ふと足を止め、首を振った。
莫迦げた妄想を口にした。この世に龍も仙人もいないと言うのに。
「莫迦な娘……私の妻になどと、良くも言える」
数年前を思い出した。
あの渭水の戦いだ。生きるには殺す覚悟を決めねば生きられなかった。今も瞼に浮かぶ。
無残に切り刻んだ、判別も付かぬほどの燕の武将の死に顔は今も眼に焼き付いている。それだけではない。屠ったすべての命の顔は、脳から、記憶から消えない。
「私は悪鬼だからな……おまえを妻になど、できまいよ」
花芯への良心の呵責は、恐らく生在る限り消えぬだろう。
その執着心を何と呼べばいいのか、天武は未だに理解できずにいた――。
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