幕間 丘陵となった土と死体の山を歩き続け

 東の大国、斉の雰囲気を再現した彫刻を始めとし、青い染料までもが故郷を思い出させるような絨毯、特徴ある金を主流とした支柱に戦国の気質を意味してか、入口には大きな剣が交差されて壁に埋まっている。


 斉の宮殿を模した場所だ。


 巨大な樫の木の幹に上半身を預けた香桜に、落ち着いた低い声が降って来た。


「何をやっておられるのです? 天帝!」


 遥媛公主は瞬時に香桜の異常を見抜き、美麗に結い上げた髪を揺らして駆け寄ってきた。


 数いる華仙人の中でも、遥媛公主は人間界を嫌っている上、香桜に並大抵ではない忠誠心を抱く女華仙人だ。天武の狼藉を知れば、宮殿を燃やし尽くす程に強い。だが、遥媛公主は純粋に香桜の身を案じているようだった。


「遥媛公主……傷に響く……なんてね。心配は無用だ」


 深夜。渭水の畔の宮殿には水音がよく響く。鈴のようでいて、琴のようでもある。

 靜かに月を揺らがせている水面に目を奪われる。


 ふと、窓から外を眺めていた遥媛公主が額に皺を寄せているのに気がついた。  

 見ていると、額に浮かんだ汗を指先で掬い、遥媛公主は苦しげであり、同時に艶めかしげな声を漏らして見せた。


「亡霊が懐かしがって騒ぐのですわ」 


 斉は予てより鉄鋼・膏薬・塩田に重きをおいている古代国だ。本来であれば、なりもの上がりの秦などには従う理由はない、歴史有る大国だ。

 かの斉の桓公が秦に下ったのは、ひとえに人民のためだと思われる。

 先の斉王は交渉の中で、万の兵と民を殺されている。


 愁天武の父は、隣国と手を組んで斉の領土の大半を奪い取った。宮殿には当時に略奪された立派な銅鐸が飾ってある他、象嵌なども彩りを添えていた。

  

 そこに在るのは完全なる再現のようでいて、実際は斉の人間への脅しである。


 愁天武は、王などより、一介の宮殿設計士として生きたほうが周りに迷惑も掛からず、いいのではないか。


 香桜は思わず、そんな戯れ言を脳裏に流した。

 ふいに、夜風が舞い込んだ。水面を攫った風は、海風に似て冷ややかに吹き抜ける。


 弥涼暮月を過ぎ、早くも初秋の風だ。


 遥媛公主は牀榻に置いてある薄手の長単を手にし、更に肩に重ねる。左手には天界から持参したお気に入りの煙管がある。


 真鍮製の筒に龍が彫り込まれ、天帝の妻を示す鳳凰を雁首に写し取った高級品だ。


 遥媛公主は、吸い口の真鍮を色鮮やかな朱唇に挟み、表情を一瞬だけ解してみせた。


「遥媛、この時代に真鍮や煙管は、まだ見ないぞ」

「私は腹を刺されるような迂闊ではないですが? もう少し、ご自分の身分を顧みて欲しいものですわね」


 煙管を咥え、紫煙を吐くごとに、遥媛公主の呆れ口調は強さを増した。


「そういえば、華陰の龍のその後は」


 香桜は指を窓の向こうの景観に向けた。


「天武が放った火は、華陰の大半を焼いた……男たちは帰る場所まで奪われた。華陰にいたのは、大多数が燕からの脱走兵や民だった。劉剥は漢らしいけど」


 香桜はふと、見つけた劉剥の惨状を遥媛公主に語り出したーー。



                 *



 陵墓では、早く殺してくれと喚きながら、男たちは泣きながら墓を掘る。暑さと、仲間の死体と、腐乱してゆく骸は、否応がなく狂気を呼んだ。

 水も与えられず、人だけが投入される。

 実は陵墓の土運びの一群の中に、李劉剥の姿を見つけるまでは、随分と時間を掛けてしまった。さすがの香桜も眼を背けたくなる地獄絵図。劉剥を連れ出す気すら、なくなった。


 食事は夜の就寝時に泥のような煉り物が僅かに配られるのみ。天武は陵墓作りには罪人を割り当てる。少しでも休めば、官吏が岩を投げてからかう。


 まず、深さの計量中に一人が有害煤気の犠牲になる。

 死んだ体を蹴りながら、二人目が土を掘る。 

 二つの死体の上に乗り、三人目が更に土を掘り返す。


 鍬は木製で腐っていて、すぐに壊れる。鍬が切れて、硬直した死体を使って掘る。

見つけた横穴に男たちは全員で入り込み、一気に土を掻き出す。逃げようとすると、一斉に火矢が掛けられ、武将が囲んで撲殺される。抜け駆けを報告すれば、官吏が泥ダンゴを一つ投げて寄越す。


 泥ダンゴを巡って、男たちは殺し合う。


 仲間の千切れた腕と、蛆虫の混じり合う土を黙々と運び、大人しく墓穴を掘り続ける劉剥は、天武と戦った時とは、まるで別人だった。


(また酒を酌み交わしたいものだがこうも変わるのか)


 夜になって、劉剥だけが動いていた。背中に土袋を背負い、丘陵となった土と死体の山を歩き続ける。劉剥が、仲間に土を掛けている……。


(声を掛けられなかった……天帝の俺が……動けなかった……)


 うつろな目をしている劉剥は、精神が極限状態なのかも知れない。


 天武が見越しているはずはない。天武は劉剥を見つけられずにいるのだ。



(李劉剥。――酒は本当に美味かった)



 飲み飽きたはずの仙人酒。劉剥の作った酒は何より美味で、まろやかだった。

 寵姫と心から愉しもうと、仙酒桃を水に溶かし、作ったのだ。


 ……蛟の天龍の気などを与えられなければ、陽気な仲間と、賭博と、愛する后戚と、慎ましく暮らしてゆく夢を描いて、生きていたはずだった。

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