幕間 秦の王は情には溺れぬ――
下らぬ茶番だと、天武は背中を向け、ふと、動きを止めた。
――花芯妃は皇宮に父を持つ秦の娘。何ら利用価値はないと遠ざけていたが。
父の名は奔起。
以前に任せていた太僕の時は、車馬や馬政の担当でありながら、軍の編成は間違えるわ、馬には嫌われるわ……呆れて、異動させた治栗内史では、徴税と貨幣計算を違えるわで、使えなかった。
しかし、花芯を貴妃として抱えてからの奔起の活躍は、めざましいものがあった。
後宮の内侍である宗正として、皇宮事務を任せたところ、見事に纏めあげて見せた上、増えてきた宦官の統制などもこなして見せた。
(こやつ、后妃とまで言うたな……)
統一を視野にしようと言うところで、膝元の秦の兵に足を引っ張られては敵わない。実際に周という巨大国家は内部分裂にて、終焉を迎えた。
(もしも楚への遠征中に問題など起こされても、すぐには戻れぬしな……遊牧民族の動きもある)
つまり、断固皇宮を護る人間が必要――絶対に裏切りなどないようにせねばなるまい。奔起の娘愛は濃い。愛娘を人質に取られてしまったら?
大人しく無我夢中で皇宮を護る以外なくなるであろう。いや、奔起の性格からすると、怯え、一度は引きこもるが、そのうち仕事をこなすはず。
花芯を傍におけば、すべてが上手く行く。
「花芯。楚に第三貴妃として同行させてやる。秦の王が独り身でゆくよりは華やかで良い。私も先の戦で疲れた。おまえとの物見遊山も悪くはあるまい。ただし、おまえのお友達の花は一切、持ち込むな。何度も言うが、私は花とは相容れぬ」
純粋な花芯の瞳が、今度は歓喜の態に変わった。
ふっくらとした頬に手を当てると、花芯は小さく声を漏らしてみせる。
「天武さまの手、冷たい…」
「だから、男を知らぬと言うのだ。男女では体温が違う。おまえ、なぜ絹を被っておる。充分に麗しい顔(かんばせ)をしているのに」
また花芯の大きな瞳が揺れた。ずっと手にしていた薄絹を返してやると、花芯はすぐに頭から被ってしまった。――褒めて直ぐに何だ。反抗的だ。
「香桜と、何をしていた。その手籠の中身は桃か? おまえは貴妃だ。桃が欲しいなら取って来てやる。姿が見えぬと、皆が騒ぐ。特におまえは皇宮の近くに住まわせているのだ。もう少しで、将を起こす羽目になるところだった」
「申し訳……ございません……」
天武の矢継ぎ早の尋問に、花芯は小さく謝罪を口にし、頭を下げた。
*
天武は兵に警護を申しつけ、花芯と共に、夜の山を振り仰いだ。
笛の噪音が、夜風に乗せられ、聞こえてきた。首を傾げる花芯に言い聞かせる。
「燕の亡霊が生んだ得体の知れない笛吹きになぞ、関わるな」
花芯は両腕を空に掲げ、眼を閉じて見せた。
「天武さま、あの……お手を……」
構わず花芯は天武の手を取り、頬に当ててみせる。
香桜の笛の音に、真夏の虫が鳴く声。ふと、好奇心から聞いてみた。
「おまえは、私の顔に唾を吐けるか」
「天武さまがお望みであれば」
「……忘れろ。では、私の腕の中で泣けるか?」
織姫が落とすような、真夏の夜の雨。灑涙雨の如く、確かに、翠蝶華はこの腕の中で泣いたのだ。愛おしい相手との再会を願って、素直に逢いたいと吐露しながら。
(李劉剥は、生きているのか……)
陵墓の作業は過酷だ。ましてや真夏。日々、日干しになった死体を運びながら、奴隷たちは黙々と土を運ぶ。遊侠の大半は陵墓の建設に向かわせた。
恐らく陵墓の奴隷の中にいると思われるが、調査しても見つからない。
翠蝶華は劉剥の顔を知っている……。
貴妃ではない翠蝶華を工事現場まで引きずり出しても構わないが、慣老を筆頭に、周りが何を言い出すやら。考えただけで、頭痛がしてきた。
(まあいい、もしも天子の気を持つのであれば、いずれ立ち塞がる。腕を切られた恨みは、忘れぬ)
――この世に天子は一人でいい。強き者が生きる。それだけの話だ。翠蝶華が泣き叫ぼうと、秦の王は情には溺れぬ。
天武は南西の空を眺めた。雄大なる山脈に隔てられた大地。雄々しく砂煙が息吹いている。視線の先には楚の国、さらなる奥には趙の大国。天武の最終目標があった――。
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