幕間 誰よりもお慕いしているのです!
華陰から戻った香桜は、用心のために天武から姿を隠していた。
遥媛公主に見られたら、叱咤ものであろう。もちろん、理由の一つではある。
――夏にしては珍しい小雨が降っている。雨季が終わり、月柳と呼ばれる節気だ。
秋にしか咲かない火棘は今夜も大量に実をつけ、夜風に揺れている。
咸陽承后殿の宮城の円蓋に腰を下ろして、飽きず、雲から見え隠れする月を見ていたが、香桜は身を乗り出させた。
少女が一人、手籠を下げて、夜を早足で歩いている。
更に見ていると、素早く火棘を摘み、今度は山地に足を向けた。夏用の薄手の長衣の袖を揺らし、長い裾を抓んで、小さな足を懸命に動かしている。
夜の山は猛獣どころか魑魅魍魎の跋扈地帯、危険だ。
ちょうど天武は後宮入りをしている時間だ。警備は自然と渭水の後宮に人手を割かれ、普段は重警備のはずの山地への道が空いていた。
――随分と奥に行くな。熊に喰われても、知らんぞ。
山地を登り、しばしして、少女の足が止まった。
小振りではあるが、桜桃の木がひっそりと佇んでいる。燕の桃の木には敵わないが、誰かが種子を植えたのか。見た限りでは、まだ若い。
「えいっ……」
どうやら狙いはたわわになっている実ではなく、葉のようだ。
桃が咲き始める時期は七十二候において、桃始華、それぞれ啓蟄の初候、次候にあたる。
香桜は音もなく後に舞い降りた。
「葉っぱが欲しいの? それとも、桃?」
振り向いた顔が、月明かりで照らされる。大きな瞠るような瞳に、可愛らしい桃頬。
おや? と香桜の瞳が雨夜の星の如く、動く。貴妃の一人、賢妃・花芯だ。
驚いた顔は熊猫のようでいて、面白い。花芯は無言で頷いた。
「どのくらい?」
「……この火棘に対して……二倍……」
薬と毒は、同じ物だ。香桜は花芯の下げている手籠を熟視した。遥媛公主の瞳のような真紅の実が丁寧に摘まれ、二十個ほど、転がっている。
遥媛公主の言葉を思い出した。
――どうやら、天武さまが貴妃と夜を過ごすと、翌日に貴妃が死ぬようですわね。
月光の下、飛び上がった香桜の耳の翡翠が、眩いばかりの翠の光沢を跳ね返す。香桜は手早く三枚の桃の葉をねじ切り、地面に降りた。
「三枚でいいかな」
花芯は葉を受け取り、俯いて素早く籠を抱き締め、顔の薄布を引き下ろした。
「その態度は、ないんじゃない? 花芯ちゃん」
震える声で花芯は、ひとこと投げた。
「お礼は言いました……お離しくださいませ!」
嫌がる口調だけ、しっかり言い放つ。香桜は小さく指をぱちんと鳴らした。手籠の中の火棘の実が、見るみるうちに枯れていった。
「火棘が! 何をなさるの……これでは……」
「貴妃に飲ませる毒を作れない」
押し黙って俯いたところを見ると、図星だ。
やれやれ、天界の秘術が漏れている。嘆息する前で、花芯は元来た山道を駆け下りた。
足取りは人間の娘よりも軽い。大気に溶け、花芯は茂った草など見向きもせず、降りている。そう、香桜が崋山を登った時に近い。
人間の娘の走りではない。ふと、有り得ない言葉を脳裏に描いた。
仙人になるには、以下の方法がある。
源力であるものが、永きにおいて、妖力を蓄えて、目覚めるもの。火蜥蜴の遥媛や琵琶の貴人がそうだ。
仙人骨を持つ龍人が修行の末、天帝の試練を受け、昇格するもの。これは香桜や白龍だ。
――最後が、華仙人自ら人と交わり、仙力を注ぎ、人に継承させるもの――
だが、異界の混血は錯乱や、予期せぬ力を生ませるため、禁忌とされている。
ただ、種を預ければ、子供は普通の人間よりは天人に近くなるが、仙人にはならない。これが劉剥だ。
皇宮に戻った花芯は、宮城の周りを取り囲み、咲き誇る火棘に、狂うように手を差し入れ、根ごと引き抜いた。棘が刺さり、白い柔肌に血が滲む。
「見ていられないな」
花芯の瞳に、香桜の冷酷な表情が映っている。腕を引き上げると、花芯の瞳は瞬く間に潤い、小さく眼球が震えるのが分かった。
「そんなに怖がらなくていい」
香桜の大きな手が、振り払うかの如く、薄絹を払い落とす。
月夜に花芯の薄絹が翅の如く優しく舞う。抱き締められた花芯が慌てて腕を伸ばしたが、羽衣に似た薄絹は指を掠り、風に飛ばされて行った。
「母様の形見が!」
唇を合わせながら、香桜は風に戦いでゆく薄絹を瞳に映した。
ふっくらとした、花弁のような朱唇は最高級だ。口づけに動けずにいる唇を思う存分に吸った。口づけに慣れない唇は震え始め、か弱い手は、香桜の胸板を押しのけた。
視線の先に、天武が震え、立っている。怒りからか、剣を握る手は小刻みに震えていた。
「探し回ればこれか。奔起の頼みで、仕方なく後宮に入れはしたが、密通は死罪」
「誤解ですわ!」
花芯が逃げようと、天武の前から後ずさった。
だが、現れた天武は剣を抜き、刃を返した。切っ先を花芯に突きつけ、退路を断つと、靜かに返した切っ先で花芯の顎を持ち上げて見せた。
見るみる花芯の眼から、大粒の涙が零れた。
突き出した剣の向こうの鷲のような双眸が、今度は香桜を見据えていた。
「私自ら、首を落としてやろうか。そもそも、なぜに天子の気を謀った!」
瞬間、花芯が悲鳴を上げた。庇った香桜は何気に脇腹に視線を落とした。
肉を切る音が聞こえ、僅かに天武の剣は、香桜の背中に先端を見せていた。
「大丈夫……だった? 花芯ちゃん」
(俺諸共、花芯を貫くつもりか。その無情には、恐るるよ)
香桜は両足を開き、どうやら花芯には届かなかった切っ先に安堵して、膝をついた。
「香桜さま! おやめください! わ、わたしは、密通などしておりませんわ!」
花芯の悲鳴に無言で香桜を貫いた剣を引き抜き、天武は乱暴に剣を叩きつけ、納めた。
「……覚えておけ。貴妃の裏切りは、許されぬ」
低い、犲(やまいぬ)のような声だ。花芯の手が震え続けるのを、朦朧とした瞳で捉える。華仙人と言えど、切られれば痛い。ただ、治癒が早いだけだ。
花芯は、ちょうど香桜を覆うようにして天武を詰っている。行動を見る限り、芯は強い。
「き、貴妃とか言って、一度もお呼び下さらない! わ、わたしが子供だって侮ってるんですか!」
天武は屈み込んで、ぐいと花芯の顔を向けさせた。ひくっと花芯の喉が鳴る。細くも、男の指が、泣き腫らした貴妃の瞼を押さえた。
「では、男の最も尊ぶ部分を、おまえは唇で愛せるか?」
静かになった花芯を天武は鼻で笑った。
「無理であろう? 靜かに花占いでもして、大人しく暮らせ」
「母の形見を……お返し……」
「この布か? ちょうど殷徳の部屋の窓の料紙が破れた。代わりに良いなと思って拾ったまで」
香桜は靜かに聞いていたが、さすがに花芯が気の毒になってきた。
花芯の言葉が止み、天武は冷たく言い捨てた。
「本来ならば、裏切りの廉(かど)で、おまえは醜女の烙印を押され、処刑だ。貴妃でありながら、姦通・密通した女がどうやって処刑されるか、教えてやろう」
天武は底意地の悪い表情で花芯の顔を覗き込むと、悪戯を仕掛ける子供の如くにやりとした。
「裸で樽に入れて、馬に引かせて町中を走らせる。たくさん杭の入った樽でゴロゴロとだ。もぉの凄く痛い上に、なかなか死ねない。試してやるか?」
天武は本気で言っていない。ただ、花芯を怯えさせるためだけに、残虐な言葉を並べている。とうとう花芯は、頭を抱えて蹲ってしまった。助け船の頃合いだ。
「勇ましき秦の王が、聞いて呆れますね」
天武が王の言葉に反応し、狂気を顰める性質は、もはや承知。天武は無表情に戻った。
「その笛吹きに命じて、この場は収めてやる。お陰で武器の強度も分かった」
「お待ち下さいませ!」
口ごもり続けた花芯の初めての声に、香桜も、天武も驚きを隠せなかった。
よく響く。そのくせ、少し低く気高い。遥媛公主にもひけを取っていない堂々とした声音だった。
薄絹がないせいか、気弱な雰囲気は微塵も感じない。天武も驚いて動きを止めている。 今まで隠れていた瞳は潤んでいても、気丈な輝きを放ち、少女の皮を抜けそうな危うい色気すらあった。
「へえ……大声を出せたんだ……花芯ちゃん」
こっそり当てた手を離すと、傷は塞がっている。龍の体液は、治癒力が強い。
だが、天武に知られるのは厄介だ。もう少し芝居を続けたほうがいい。
「わたしを見損ない過ぎですわ! よ、夜のお相手も、誰よりも……こ、こなせる貴妃……いいえ! 后妃ですわ! いつか花芯美人とお呼びになりますわ」
――后妃とは、正妃。妃嬪の最上級の称号は、美人と言う。
「よくも、おまえ、そこまで……」
花芯の虚勢に、呆気に取られ、絶句した天武の前で、花芯は唇を震わせて続けた。
「当然でしょうっ……!誰よりも……天武さまをお慕いしているのです!」
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