第一章幕間 秦の花妃と、斉の火妃
幕間 弥涼暮月(いすずくれづき)
翌日。華陰の戦いを口述筆記させていたところに新たな武器ができたと商人が訪れた。天武は、しばし脳が真っ白になっていた状態に気がつき、再び書簡を持ち上げた。
「あ……剣だったな……見せてみよ……少し重いな。軽度を上げつつ、強度を……」
脳裏に浮かぶ、強引に陽の気を放出させられた庚氏との夜の睦言を打ち消すかのように没頭する最中に、兵たちが揃って同じ方向を向いて見せた。
「失礼いたしますわ。書簡をお返しに参りましたの」
頭痛の種。腕に大量の書簡を抱えた庚氏がしずしずと、いつもの淑女の装いで現れて、コロコロと笑った。
「まあ。苦虫を噛み潰したようなお竜顔。先ほど廊下で花の貴妃に出くわしまして。貴方さまに用意したのですわ。本当は、もっと朝に来るはずが……」
差し出されたのは、色とりどりの花束だ。
――花芯! あの娘は、どんな嫌がらせを!
見るなり天武は頬をピクリと引きつらせ、従わせていた兵士から剣を掴み取った。
綺麗に纏められた花束が一刀両断され、床に落ちる。
後で、天武は剣を掌で叩いて見せた。
「やはり、重いな。無駄な装飾が原因か……それとも、刃が打たれておらぬのか。鍛冶の技術の問題か」
刃に指を滑らせ、僅かに切れた指先に、庚氏の唇が僅かに笑い歪む。
庚氏は更に微笑みを浮かべたまま、何度も自分の掌で下腹に〝のの字〟を書いて見せ、あら、と首を傾げて話に割り込んだ。
「武器の研究ですのね」
「ああ、華陰で、変わった武器を知った。いずれの大戦への備えは必要だ。これでは、楚に対抗できぬな」
「楚……」
庚氏を哀しませると、秦の兵が文句の表情で睨んで来る。天武は口角を僅かに上げて見せると、視線を逸らした。
「冗談だ。そなたの仕事ぶりを見ておれば、楚を攻める気など、なくなるわ」
「書簡と小刀を。秦の王は意地がお悪い。知りたくもありません事実を残さねば」
――さすがは、才の美女。二重にも三重にも打撃を与えてくれる。
言葉を失った天武に、毅然と言い切った庚氏は唇を押さえて喜色満面の笑みで微笑んだ。
「わたくしの故郷、楚に向かいませ。楚には有能な武器商人や、私の義父の武将、項賴(こうらい)がおります。今更、秦に逆らうような愚かな国ではございません。楚は、秦よりも歴史がありますの。従って秦に怯える理由はないのですわ。必ずや天武さまのお役に立てるはず」
ね? と母親の如く天武の手に手を重ね、悪戯まじりに指を滑らせて、離れる。
さきほどから大切なように包み込み、押さえている腹が無性に気になった。
同衾したのは昨晩だ。そんなに早く、ややができるものか。つくづく厭味な女だ。
「指先が、いかがいたしましたか?」
知らず指先を摩っていた。天武は暢気に聞いてきた兵に愛想笑いした。
「そなたは、なぜにあのような書簡を?」
場にいまだ佇んでいた庚氏は目を細め、こぼれ落ちた髪を指で悪戯していた。
「無駄な殺生をしないよう。女の願いですわ。護られる身と致しましては、暴君であらぬよう願うまで。血気盛んな殿方にはわからぬ理屈でしょうけれど」
「私は勝ちたいだけだ」
「まあ、我が侭なやや子のようですわね。好きになされば宜しいわ。貴方にはそれだけの権力がおありなのでしょう。やや子なら、お育ていたしますわよ。道中、お気をつけて。夫に宜しくお伝え下さいましね」
菩薩の如く言うだけ言って、庚氏は与えられた宮殿に颯爽と戻っていった。
――言い返す隙もなかった……。
ふと見ると、近くで様子を窺っていた李逵と奔起が肩を震わせている。
新たな剣を握り締めて、天武は低く唸った。
「――斬られたいらしいな。そなたら」
真夏の長暑も、あと僅か。弥涼暮月(いすずくれづき)の名の通り、冷たい風が吹く中、両名は揃って、驚くほどに朗らかに言葉を返した。
「滅相もございません」と――。
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