漢の蝶徒花 引いた札の色の妃嬪と、夜を共に――

 咸陽・承后殿の正門には、帰りを待ちわびる武官・女官が集まっている。人足たちは街の広場に集め、燕に向かわせる者、陵墓建造に携わる者、死を覚悟で遊牧民族からの壁を増設する者に分けるよう、天武は命令を飛ばした。


 宦官が二名やってきた。


「天武さま、侍医が参りましてございます」


 声に、前方を振り仰ぐと、薬草を溢れんばかりに詰め込んだ籠を手に、慣老が、助手とともに姿を現すのが視界に入った。

 怪我をした兵士たちが期待に染まった目で見るのを知らぬ素振りで、天武の前に恭しく膝をつく。灰色の長袍型の衣装は地味に似合っている。


「腕を切られましたな……傷は浅いから、心配は要らんでしょうが」


 掴んでいる陸睦の体温が下がっている。天武は首を振った。朱鷺は察したのか、足を折り曲げて、地に座り込んでいる。焦りと憔悴で、声が掠れる。


「私を庇ったのだ。陸睦なければ、死んでいた……手当を。馬に長時間、揺らされている」

「貴方様の腕が先でございます。化膿しているではないですか。……押さえなさい」

「薬は不要だ!」


 ぎゅうぎゅうに押さえられた上から大嫌いな膏薬を塗られ、更に鼻が曲がりそうな樹液をたっぷり染みこませた布で巻かれた後で、宦官が更に頭を下げてきた。


(銅剣がなかった機を光栄に思え……っ)


 怒りで見れば、陸睦は乱暴に担ぎ出され、板車に乗せられて、宮殿の離れに運ばれ始めていた。

 天子である天武の傍での治癒はできないとの医師たちの判断だ。

 しかし、板車……死体を運ぶ時の荷台ではないか!


(文句も出て来ぬわ)


 天武はいつまでも腕を看ようとする医師の手を振り払った。


「しばし、外に出る。華陰から刈り取った人足を集めよ」


 困惑する武官たちを眺めて、(そうか)と気がついた。

 半分は燕の砦と、匈奴の防壁作りに向かわせたのだった……。


 遠くなる板車を見ながら、皇宮に引き上げ、大広間を横切り、王座に座ったところで、李逵(りき)がやってきた。李逵は、采配の的確さを買われて、宮殿内の内侍相として働いている。謂わば後宮と皇宮の連絡係だ。

 後宮の武官の揃いの濃紺の長袍。後宮を少しでも格調高く見せるため特別に許した金糸の上着。李逵は銀盤に載せた天武の衣装を掲げ、片膝をついた。


「お帰りなさいませ。天武さま」


 載っている衣装は、夜の公務用の正装だ。無意識に唇を曲げた。


「疲れているのだ。今宵の貴妃には、そう伝えよ」

「天武さまが決めた日程ですので消化されないと、予定が狂うかと」

「では、変更だ」

「そうは参りません。陽を蓄える絶好の刻です。さあ、札をお選びくださいますよう」


 言い合いに負けた。

 小さな飲み物の入った器に、七枚の札が置いてある。飲み物の中身は恐らく白酒。

 札は初めて見る物だった。几帳面に並んで置いてある。


 李逵は自信満々な口調で講釈した。


「我らが思案した、天武さまの夜の仕事を円滑にするものでございます。裏には、籠姫・貴妃たちの名前が書いてございます。引いた妃嬪と、夜を共にして頂きます」


 絶句したまま、呆然と指を札に置いた。三国を手中にした今、内部に敵を作りたくはない。一枚を乱暴に床に弾き落としてやった。


 ――札は黒、楚の賢妃・庚氏。


「書簡さえ与えておけば、靜かに過ごす聡明な女だ」


 書簡……ふと天武の脳裏に、嫌がらせの書簡が浮かぶ。

 やたらに綺麗に並んでいた文字と、佳人を思わせる上級な文章。文字書きが可能な中でも、文を繋ぎ、尚且つ隷書を扱える者は少ない。

 庚氏は、政略を書いた書簡すら、読める――天武は李逵を呼び止めた。


「いや、やはり、行こう」


 天武の目が廊下に散らばった花びらに吸い付けられた。剣で払おうとして、もはや銅剣は死んだ事実を思い出す。



 ――新たな武器を開発せねばなるまいな。楚を見習うか。



 楚と秦は、庚氏を間に挟んだ「協定状態」にある。庚氏が後宮に生きる限り、天武は楚だけは攻めないと、調印しているのだ。諮る如く、今夜の相手の庚氏は、楚の女。


「北の棟の武器商人に、楚の剣を手に入れるように言え。いずれ、赴く」


 牀榻のある宮への道すがら、天武は更に劉剥の武器を思い出した。

 強い歪曲型の剣だった。梃子の原理を巧く作用させていた。

 鎌鼬如くぱくりと傷を作ってしまった……。


(まだまだ、我が国は弱いな)


 すべてを統一したとき、何処よりも秦は強くなれると、しばし天武は、夢を見る。


 ――それより、宮殿だな。


 作りかけの宮殿が何よりも気になる。いや、崋山の後始末か。やるべき仕事は山とある。女遊びをしている暇は……もう、この台詞も飽きた。

 天武は足取りが重いまま、黒髪を戦がせ、覚悟を決めて牀榻に向かうのだった。

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