漢の徒蝶花 焼野原と漢の遊侠

 天武は銅剣を抜こうとして、手が違和感を覚えた。既に剣は粉砕されていたために、武器はない。背中に汗が伝わり、落ちてゆく。

刹那、遠くから走って来る馬の蹄の音が鼓膜に届いた。

 馬の首には、何十本もの矢が刺さっている。射られた箇所からは血が垂れている。

馬は走って、遊侠の男を馬ごと突き飛ばし、足をカクンと折り、巨体は倒れた。

隙間から狐が顔を出し、渾身の力で天武の名を呼んだ。


「天武さま! ご無事ですか!」


 涙目で陸睦は、天武を見上げた。

天武の目に後で武器を掲げる劉剥の姿が飛び込んだ。ゆっくりとした動作で劉剥は剣を振り下ろしている。


「陸睦!」


 目の前で、肉が切れる音が響く。更には、舌打ちの音。

 どさりと寄りかかったモノから、どす黒い血が流れ出す。泥だらけの、猿のような生き物。片目から流れた血に、泥がこそげ付いている。髪にも泥が絡まり、顔も半分が泥に埋まっている状態だ。


「俺以外は全滅でした。俺は、馬を助けて……ああ、天武さま無事で良かっ……」


手が陸睦の躰を支えようと、ゆっくりと動く。陸睦は笑った。


「……なぜ、庇った……」


 低く唸り、天武は耐えきれずに声を張り上げた。


「なぜ、庇った! 私は、そなたたちを利用したのだぞ! 命を無駄にするでない! 私なぞより、愛馬を」

「そんなことしたら、澪(みお)に蹴られちまいますって……」


「澪……? 愛馬の名前か」


 陸睦は吐血しながらも頷いた。


 血を流した片目には涙が溢れているのが分かる。薄く伸びた赤の水が頬を滑り落ちた。天武の脳裏に嬉しそうに愛馬に乗っていた陸睦の姿が浮かんでは、雲散してゆく

 陸睦は優しい目で、動かなくなった巨体を見つめた。


「元々、蹄鉄炎を煩ってたんです……俺、帰れそうにないですね……澪がいなくなっちまいました……」


 陸睦の頬の泥を指で拭うと、陸睦の大きな瞳は更に潤んで、滴を大きく落としてゆく。


「案ずるな。咸陽には、私が連れて帰ろう。愛する馬も、一緒にな。立派な陵墓を建ててやる。今、手当班を呼ぶ! だが、おまえを墓に入れるつもりはない」


 ふわりと天武は陸睦の頭を撫でた。(無事で良かった……)呟きは声には出せなかった。


「帰路には朱鷺を貸そう。優しい馬だ。察して、ゆっくり歩いてくれる」


「おそれ……おおい……で……す……天馬をお借りする……な……ど……」


 陸睦は荒い呼吸を繰り返す。

天武の腕の血は止まっていたが、陸睦の背中の血は止まらない。天武はすぐさま止血を命じ、やがて名乗りを上げた、医学に造詣の深い男に陸睦を任せた。


 怒りが急に込み上げた。


 切りつけてきた男は、もう逃げたのか、消えている。蜥蜴のような素早さだ。

だが、天武の怒りは収まらない。――あの男には顔に傷があったのだ。



「李劉剥……許さぬぞ! 朱鷺! 怖じ気づくな!」



 朱鷺に跨がり、屈強な馬が悲鳴を上げるほど、脇腹を蹴った。疾走しながら、天武は怒りを迸せて叫ぶ。


「邑に火を放て! 顔に傷がある男は、全員、八つ裂きにしてくれるわ!」


 ――翠蝶華。もはや、約束は守れない。


 火矢が、松明が、山麓の邑に火を広げた。

馬が何かを踏んづけ、手綱を引いた。

蹄を上げると、無残に折損した愛剣の柄だけが靜かに横たわっていた。


所々に火の手が上がる邑を、馬で走り廻る。倒れ朽ち始めた骸に火が移る。

朱鷺はものともせずに、乗っている天武の怒りが伝染したのか、小さく唸りを上げている。


(どこに逃げた!)


 また、雨が降り出した。天武は、泥と血で汚れた頬を肩で拭った。

劉剥に斬られた傷が痛む。


(雨が強すぎる。これでは、何も見えぬ)


 邑の火を消すかの如く、雨が降り注ぐ中、天武は馬を止めた。正面から武大師が馬で駆けつけてくる。少しだけ、天武は表情を柔らかくして見せた。

 武大師は、兵卒を連れて行動を起こしていた。手綱を引き上げると、朱鷺は嘶いた。


 蜥蜴の男は遠く逃げた可能性があった。こんな結果になるのならば、出入り口を固めて皆殺しにする覚悟で捕獲すべきだった……。


 消沈した表情を鉄仮面に隠して、天武は顔を上げた。だが、兵の言葉は光明だった。


「天武さま。見つけました! 遊侠たちは、岩場に集まっておりました」

「連れて来い。私が自ら手を下す。顔に傷がある男は、四肢を縛り上げてここへ」


「それが……」

 兵士が口ごもった。


「全員、顔に傷があります」


「莫迦な……全員……傷があるだと? では、龍はどうした! 龍を背負った男を捜せ!」


「そのような龍は……誰も目撃しておらず」


 報告に、天武は唇を噛み締めた。悔しさが滲み出る声音で叫んだ。



「今後、遊侠の名を口にすれば、命がないと思え! 龍も同様だ!」


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