漢の徒蝶花 賭博で顔に傷をこさえた愚かなならず者
*
大量の土砂が、恰も流水の如く土砂崩れを起こしている。陸睦たちは天武が指示した通りに馬を走らせ、下層での激しい震動は、雨上がりの地盤を緩ませ、二合目で揺れた地盤はそのまま山岳地帯の地面を揺るがせる。見事に土砂は華陰を襲い、固まりかけている。華陰を抜けると、平野に出た。どことなく燕の渭水付近に似ているのは、同じ水(かわ)だからだろう。
一瞬、過去の燕との決戦に身を投じているような心地になった。
崩れた山地を見やる。泥の臭いが、鼻を掠めた。湿った臭いだ。
(呑み込まれたか……)
「二千人。知っていれば、もう少し派手にやったのだが。まあいい、生き残りを捕えに行く。こうもあっさりとケリがついても、面白みはないのだが」
拍子抜けを覚えながら天武が独りごちた時、火矢が次々と飛んで来て、貰い火を撒き散らした。兵が次々と射られ、前のめりになった。
土砂崩れの向こうに、敵陣がある。直ぐに天武は迎撃の陣を示唆した。
だが、しばらくして、相手するほどではないと気付く。
火矢は方向を違え、ひょろひょろと飛んでいる。的確に攻撃を仕掛けてくる燕の兵士とは、雲泥の差だ。指揮官がいない。陣形もない。
泥の上を数多の蜥蜴が這っているのに気付く。兵に分からせぬよう、鷺の上に逃げると、一本の火矢が朱鷺の尻尾にぶつかり、天武は素手で火を消した。
――遊んでやるか。
「剣を持っている兵は、一斉に投げつけてやれ。新しいものを支給してやる」
天武がひょいと親指でやると、兵たちは言われるまま剣を投げた。
何百本の剣が、蜂の群れの如く空中を舞い、火矢が止んだ。
(なんと粗末な。人足を揃え、咸陽に戻るか)
――翠蝶華の想い人とやらは、見付からなかった……だが、翠蝶華は、是が非でも欲しいところだ。
(帰りながら、作戦を練るか。また唾を吐かれては堪らぬからな……)
天武が背中を向けた瞬間、一頭の馬が砂埃を蹴散らすかのような速度で弾丸の如く突っ込んできた。進行方向に背中を向いていた天武は、遅れを取る格好になった。
将が二人、落馬した。
「うおりゃああああ! 怪我するぜえっ!」
敵は雄叫びを上げ、馬の上で鐙に両足を乗せたまま背筋を伸ばし、落馬させようと、剣を振るう。恐ろしい運動神経だ。
敵は剣を水平に構え、猛突進してくる。既に周辺の将は落とされた。
――逃げられぬ!
剣は青銅よりも固い。眼を瞑り、剣で防護した。ガキンと音がし、天武の剣は刃を擦れ合わせた途端、折損した。
「な……っ」
驚愕したと同時に、更に地響きがし、崋山の山が再び崩れ落ちる。
目線を視界の横に映る崋山に走らせた。
「余所見してんじゃねえよ!」
甲高い掠れ声がして振り返ると、首元を狙う切っ先が視界に飛び込んだ。
目から頬にかけての切り傷にしばし、頭が白紙になる。翠蝶華の声が、はっきりと脳裏に甦った。
〝賭博で顔に傷をこさえた愚か者ですわ〟
――翠蝶華の言葉は、一言たりとも違えずに覚えている。少しうら悲しげにぽつりと呟いていた。
「その、傷……」
再び刃が襲った。突きの形は見た記憶がない、亜流の剣術だ。
男は天武よりも長い剣を構えている。剣は先が太く、柄から歪曲した形になっている。重量を計算しているのか、鎌鼬の如く剣が啼いた。
掠った拍子に切れた腕から、どぷっと血が噴き出し、腕がみるみる血に染まった。
「秦の王の血も、俺と同じかよ。青銅じゃねぇんだ?」
目の前で男は挑発的に笑い、武器を肩に掲げたまま、上唇を舐めてみせた。
天武と男の視線が、かち合った。
男の背中からは龍気が立ち上っている。しかし、よく見ると、大きな火傷だった。動揺と怒りが一緒に押し寄せる。
天武は腕を押さえ、圧迫しながら、虎が唸る如く声を漏らした。
「貴様……名を名乗れ……」
男は月型の剣を構え、不遜な笑みを浮かべた。
「李劉剥。死にたくねぇなら、咸陽に帰んな、秦の王様よ」
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