漢の徒蝶花 龍の咆吼を此処に訊け

 東の空が深紅に染まる。真夏の朝焼けは紅を通り越して、黄金色になる。地上では金の光を暁光と言う。確かに朝焼けの色には神々しさがある。

 崋山に生え聳える一本の杉の木の上で、香桜はずっと様子を窺っていた。

 秦軍はと言うと、崋山の前で大人しく夜を越した。だが、夜に僅かな兵が動いている。秦の別働隊だ。


 ――ただ欲や酔狂で暴れているわけでもなさそうだな、天武は。


 元より、劉剥たちに加勢するつもりも、天武に力を貸すつもりも一切ない。

 馬が二十騎ほどか、崋山を登ってくる。龍で崩した山がなければ、とっくに天武の軍は華陰に到達している。貴人並の悪戯だが、効果はあった。

 ふわりと龍に飛び乗り、下方を窺うと、秦の部隊は馬を二合目まで率いたところで、やがて止まった。不安定な磁場で、先頭を率いているのは、まだ少年だ。

(また捨て駒にするのか……あんなに若いのに)

 そう言えば……遥媛公主と弔った兵士たちも随分と若かった気がする。

 屍を平然と見ている天武の姿が脳裏に浮かんだ。背中を向け、涙一つ浮かべず、かつての自国の兵をただ、見ていた。

『この者たちにも未来はあったのであろう、と。もしかすると、この者たちこそが、また時代の主役になるべきかも知れぬ――』

 天武は靜かに呟いていた。屠る事実を受け止め、後悔しているような口ぶりだった。


 ――愁天武は、たった独りで何と戦い、何処に向かっている……。


 朝焼けが色濃くなる。


 香桜は龍の頭を撫でた。龍が咆吼する。龍の咆吼は雷だ。黄龍は雷神の如く華陰の空に轟きを上げた。

 香桜の脳裏には、なぜか賭場の岩室で、いつしか劉剥の腰袋から逃げ出した大量の蜥蜴たちが浮かんでいた。



                                *



「あいつらは果たして実行するのだろうか」

「元は魏の兵将など、何故(なにゆえ)、天武さまは信用なさる」

「だから、ちょうどいいのさ。天武さまは最終的には、秦の人間しか信用しないお方だ」


 武大師を中心にして兵たちが口走っている内容は、聞くに耐えない。

 暁の空の下で、天武は無言のまま目を閉じていた。

 夜の帳は上がり、黄金の光が射し込むも、雲が遮光してしまっている。手放しの朝焼けは、どうやら見られそうにない。

 ぼんやりと見えた崋山の姿は、今は薄靄の彼方にある。霞懸かった崋山に至っては、こちらより遙かに足場が悪い。雨が地盤を緩めている。

 後方の男たちの雑談に耳を貸しながら、ふと、何故に陸睦は進み出たのかを考えた。

 ――陸睦たちは若い。得てして、雑談している男たちの他、秦を神聖視する輩は多い。それでは、駄目なのだ。国は必ずや疲弊する。国が拡がれば拡がるほど、集まる民族は増える。秦は夏朝時代から戦いを繰り広げ、三国列強と呼ばれた魏・呉・蜀や楚、趙に比べ、遅れを取っている。

 魏の出身の陸睦らは、謂わば群雄割拠のさなかに生まれている。敵国に下ろうと、一つでもいい。武勲が欲しいと願っている。

 思慮を止め、靄が晴れるのを待った。

 天上では朝だというのに雷が鳴っている。雷光が空を奔り、豪雨が降り注いだ。甲冑を打つ雨の粒はとても大きく、打ち付ける音すら響く。空気に重い雷鳴が伝わった。


 天武は濡れた頬を晒したまま、靜かに朱鷺の手綱を掴み、地に立ち続けた。

 再び龍のような雷鳴が轟いた時、僅かに霞が晴れ、黄金色の光が秦軍を照らす。


 ――好機。雨が弱まった今こそ……。


 事情を知っている者たちは靜かになった。が、陸睦たちが動く気配はない。

(やはり、無理か)

 天武は失望し、嘆息した。そこで、遠くから馬の嘶きが聞こえた気がした。

 続いて、蹄。

 崋山と現在地は華陰を挟んだ対極にある。陸睦たちが辿り着いたかさえも怪しい。

 だが、天武は次の瞬間、顰め面を充足の笑みに変えていた。

 駆け下りる馬の姿。はっきりと耳に届く馬の鳴き声。追い風は相変わらず雹混じりの雨を連れているが、間違いがない。

 続いて馬が走り出す時の特有の重たい震動。確信を持った、天武は手綱を握り、朱鷺に飛び乗った!


「行くぞ! 将は私に続け! 兵は全力で駆け抜けよ!」


 数百の馬が土砂を蹴散らし突進してゆく。

 崋山からは陸睦の率いる数騎が、華南からは本陣が。双方の山から山麓を目指し。


「容赦は要らぬ! 叩き潰せ!」


 数頭の馬が、まず大通りらしき通りを猛勢で駆け抜ける。既に人を斬った兵が在るらしく、無残にも倒れた骸があった。無数の蹄に踏み荒らされ、砂嵐に隠れてゆく。

 突然の猛攻に、華陰の商人たちが門戸を閉める音が早朝に響いた。

 馬が裏道を逃げてゆく。逃走が早い。天武は馬を引き上げて叫んだ。


「私は、秦の王! 此度燕の謀略を潰しに来たまで! 大人しくしていれば、殺しはせぬ。邑の長を出せ」


 一人の老爺が引き出された。爺は僅かに失禁していた。


「天子さま! なな、何故! この長閑な邑を!」

「時に、そなた。顔に傷のある男は知らぬか」


 爺は震えながらも、膝を付き、答えて見せた。


「……漢より流れて来た龍の男たちが棲み着いてございます。お、お助けを……」


 天武は銅剣を掲げたが、余命幾ばくもない爺を斬ったところで、何の得もないと剣を下ろして見せた。爺は微塵子の如くあたふたしながら、家に逃げ込み、杭を打った。

 将が耳打ちをする。


「火を放ちますか」

「華陰の男は全員、生け捕れ。人足にして連れ帰る。ちょうど、陵墓の建設に人手が欲しいと思っていた」


 少年王と呼ばれた時代、周りの者は、こぞって陵墓の建設を薦めてきた。今にして思えば、さっさと去れとの意思表示だ。自分で自分の墓を作る。莫迦莫迦しいが、権威を示すには、巨大建築が一番だ。渭水の宮殿計画、燕山の砦建設……思い描く巨大な夢の実現。人手は、いくらあってもいい。


「全員、捕縛せよ。手段は問わぬ!」


 天武の声を合図に奇声が上がる。閉めた門戸を蹴破る者、馬ごと人を踏み潰す者、女を引きずり出す者……。


 乱暴狼藉は、犯罪者兵の役目。秦の兵は絶対に狼藉を行わない。最終的に狼藉を行った兵には処刑という天武の制裁が待っているのを、知っているからだ。

 士気を上げるためには多少の略奪行為は必要だった。

 狼藉の様子を顔を顰めて見ていた天武に、一頭の馬が走り寄った。馬を慌てて引き、砂埃を自ら被った。


(何を慌てているのだ)と天武が一瞥した後で、将は咳き込みながら告げた。


「崋山の山麓の平野に、へ、兵が集まっている様子です!」

「華陰に兵? 兵と呼べるような軍事力は、なかったはずだが」


 再び眉を顰めた前で、兵士が続けた。


「平野の天上に巨大な龍が見えたと、兵たちは恐れ戦き、散り散りになりつつあります! やはり、これは神の……」


 まさか。天武は雷雲の垂れ込める空を見上げた。うっすらと雲気が渦巻いている状況が分かる。怒りで手綱を震わせた。

 報告した兵士を鞘ごと薙ぎ倒し、馬を引いて振り返った。


「今より、崋山に向かう! 龍などと言う者は、死を覚悟せよ」


 その時、大きな地響きがして、天武は顔を上げた。秦軍の動きが、一瞬にして止まる。



 腹を抉るような轟音。


 ――崋山の一部が崩れ落ち、兵と馬が流されて行った――。

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