漢の徒蝶花 天が邪魔をするなら、天を従わせるまで!

「馬が通れぬとの見解を申してみよ」


 侵攻を止めた天武は、騎乗の巧い将に命じて、辺りを調査させていた。

 兵たちは、ここぞとばかりに、食料を散らかし、賢いものは馬の手入れや、武器の手入れを始めている。酒を軽く断り、天武は朱鷺の上に跨がった。

 馬は、乗らねば駄目になる。天武の体重を感じた朱鷺は不思議そうに首を傾げていた。


「周辺の土が脆くて、馬が登れないのです。神の怒りに触れたのでは……それか、自然に崩れたか」


瞬発的に剣を抜き、将の水筒を銅剣で貫いて、天武は弧を描くかの如く銅剣を靜かに鞘に納めた。毀れた水が勢いよく地面に染みこんでゆく。


「私の前で神などと口にするな。二度はない。是正せよ。更に崋山の向こうには、月氏どもが手薬煉を引いて待っていよう。崋山の高度が年々下がっているならば既に侵攻はあったはずだ。とすれば、土砂は近日に現れたと見て間違いがない。崋山の延長線に位置している。土を。いや、私が降りよう」


 天武は馬を下り、土塊を掴んで、手で握り潰してみた。

 指に泥がこびり付く。粘着力がある。肥料に近い、鉄分を多く含んだ黒ずんだ色をしていた。粉々になると、途端に崩れる。更に手で固めると、重くなった。


「この土は……」


 覚えがある。天武はまた周辺を見回した。


――渭水の恵み。督亢(とくこう)。

燕の麓の土質と同じ。黄河の支流が泥を運んで来たのだろう。


 天武は崩れた土砂を睨んだ。手綱を手に巻き付け、天武は馬を山岳に向けて見せた。察した兵の声が飛ぶ。


「天武さま! 危険でございます! いつ崩れるか……っ」

 怖じ気づいた兵たちにせせら笑い付きで一喝した。

「腰抜けは、引き返すがよいわ。志を強くする者だけ、続け!」

 恐怖を表すかの如く前足を叩きつけている朱鷺の鬣を撫でてやり、優しく囁いた。

「朱鷺。そなたはこの私の愛馬だ。怖じ気づくのではない。行くぞ!」

 鐙を一層ぐんと強く踏み、天武の左足が馬の脇腹を蹴った。

一体になり、風を切って土砂を駆け上がる。


――確かに地は緩い。土に負けてたまるか。


いつもより上半身を浮かし、前のめりになった襲歩を超えた、疾走の態で、天武の馬は軽々と土砂の山を越えてゆく。

 勇敢な将たちが三騎ほど、同じく土砂を駆け上がって続いた。

 崋山と同じ花岩石の砂利まじりの土砂は矮小ではあるが、親である霊峰崋山と同じ、険しさを醸し出していた。高さは優に、咸陽承后殿くらいはある。

だが、かつて母親と敵陣を逃げ回った過去を思えば、ただの山だ。いつ見付かるか知れぬ中で、足を傷だらけにして、母の手を引いて逃げた山のほうが、もっと険しかった……。


趙での凄惨な質としての過去が、しばし天武の前を通り過ぎて行った。

 土砂を駆け上がったすれすれの先端で馬の手綱を引いた。断崖だ。切り立っている。

 馬の片足が滑ったところで、背を反り返らせて止めた。もう、夜の帳は降りている。目の前に聳える未踏の地、崋山からは霊気が立ち上っていた。

風が強い。鬱蒼とした黒髪を揺らして目を凝らすと、目指す華陰がよく見えた。

 天武は口元を軽く歪めた。


(崋山からは無理だが、駆け下りられそうだな)


 しかし、俄仕込みの将たちは、ついて来られるか。


「自然に崩れたものではないな……ん?」


山肌を削ったせいか、逆に崋山の二合目が見える。やはり高度が下がっているのだ。

 ――時間は掛かるが、迂回し、渭南側から登るのが可能。

 手綱を持ち替え、控えた兵を見下ろした。続いて登ってきたのは、三騎の将だけだ。天武は靜かに視線を崋山から、将たちに移した。


(三騎か。数があると思っていた。いや、心強い。せいぜい働いてもらうか)


「兵力を分けよう。私が中心の指揮を執る。さあ、別働隊の指揮に名を上げる者は!」

 三人は顔を見合わせ、直ぐさま一人の手が上がった。

見た覚えのない顔だ。遊牧民族の顔をしている。秦の古兵ではない。

 手を上げた男の顔が見えた。狐に似ている。


(馬に狐が乗っておる)


 吊り目で、尚且つ少々寄り目だ。だが、瞳には光が溢れていて、好感が持てる剽軽な顔をしている。更に秦の甲冑の大きさが合っておらず一回り小さな肩当てが何とも可笑しい。

 天武が笑いを堪えたのを笑顔と勘違いした少年も、更に手放したような笑顔になった。笑うと、もっと狐に似ている……。


「失礼。名は」


「陸(り)睦(つ)と申します!」


 若い声だ。天武より身長は低い。だが、馬には見覚えがあった。

 先程、兵士を斬った際、死体が落ちた。見ていた何匹かの馬が悲鳴を上げた中、どっしりと構えた馬がいた。動じず、ただ歩みを止めたのを憤慨し、鼻を鳴らしていた。


「素晴らしい馬だな」

「お言葉、有り難く存じます! 大層、可愛がっている馬で、連れて来たんです!」


 いきいきと陸睦は答えた一方、馬は靜かに頷いている。馬のほうが大人びている。


「そなた、秦にいたか?」

「いえ、出身は、魏です」

「――よし。では、陸睦。近寄れ」


 不安定な足場にも、陸睦は怖じける素振りなどなく天武に並んだ。馬が危機を察して、主人を落とさぬよう、僅かに首を反り返らせる。

 篭手をつけた腕を掲げ、空中で崋山をまっすぐに指した。陸睦は緊張しているのか、かちこちとした動きで、天武の顔をおそるおそる見つめている。


「見えるか? 迂回して、南東から崋山の山を登れるだけ登るのだ。あまり高くなくていい。そうだな、兵は百人ほどで良かろう。いや、五十人でも良いぞ。明日の朝焼けが合図だ。夜襲……とは言えぬが戦略に卑怯の言葉はない。覚えておけ」


 天武は陸睦にできる限りの作戦を示唆した。

 狐目は非常によく動く。機転があるらしく、最後には天武に挨拶をして見せた。


「必ずやり遂げて見せます!」


明るい決意の言葉に、天武はようやく笑みを見せた。

 陸睦は勇ましく馬を操作し、力強い蹄鉄を鳴らして駆け下りて、兵軍に飛び込んだ。後で、天武と二騎の将もゆっくりと下りた。

 一騎は、元より秦に属する武太師であり、天武とは懇意。名を覚えない天武は単に武太師としか呼ばない。


「しかし、天武さま。万が一転がり落ちたら一網打尽になるのでは」

「……背に腹は代えられぬ。分かっているからこそ、おまえたちは名乗り出なかった。違うか? 年の功だと言うところか」

 僅かな兵が離脱し、元来た道を引き返してゆくのを見ながら、天武は続けた。


「……運が良ければ、助かるがな……」


「やはり見捨てるつもりで!」


 天武は苦笑した。


「私に殉じて死すまで。運が良ければ助かると言ったろうが」

 天武が発した言葉に兵が動揺した。馬をこっそり引き、逃げようと手綱を握る者もいる。

 二十万の兵力は長く伸びていたが、動揺だけは早く伝わる。


「天武さま! 渭水の石門にて、兵は瓦解し始めております!」


一刻後の報告に、天武は悪態を腹でつく。


(性根を叩き直してくれるわ)


 銅剣をゆっくりと引き抜いた。道中で天武に斬られる兵士を目の当たりにしている兵たちは靜かになった。


「運を天に任せるなどとは言わぬ。攻め込む時は、私が自ら指揮をする。口うるさい輩はさっさと逃げろ。戦いは秦の輝かしい戦歴となる。誰かおらぬのか! 私に最後まで従いてくるような勇猛な将は! 私が何をしに来たと思っているのか!」


 馬の顔が少しずつ天武に向き直る。最終的にすべての馬が天武に向いた。

天武は無駄な時間を過ごしたと吐き出しつつ甲冑に包んだ腕を上げて見せる。


「地の利で邪魔をする敵には、地の利で返す。思うに、障害にするため、崋山の土を削ったのであろう。華陰は山麓にある。通る道は崋山を駆け上がるか、迂回するか」


飛び交った声に、天武は眼を細めて頷いた。勇壮さを滲み出させた声音は、兵たちの動揺を鎮めて行った。


「別働隊が崋山から攻め入れば、容易く土砂崩れを起こせる。土砂は麓の華陰邑を襲うであろう。咸陽と違い、渭水の水を含んだ土は粘着力に加え、重量がある。乾きにくい性質なのは、調査済みだ。別働隊が山を駆け下りた瞬間が、決め手となる。華陰は、一瞬にして崩れ落ちる。敵国ではないが、めぼしいものは、すべて奪え」



 ――李劉剥をここに連れていらして、という約束がありますわ。殺すのね。嘘つき王。


 翠蝶華の声が聞こえ天武は空を見渡し、吹っ切るよう補足する。


「天子の気は、一つでいい。顔に傷がある男を捕えた者には、相当の褒賞を出す」


「邪魔をするな」と脳裏の翠蝶華を追い払った。

剣を一筋振ると、天武は馬の手綱を馬が嘶くまで引き上げた。

 夜と言うのに、空に小さな稲妻が走っているのが視界に入る。


 今度は夜雷。――だが、天が邪魔をするなら、天を従わせるまで!


決して動かぬ天の星、天極に向かって、天武は剣を突きつけた。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る