漢の徒蝶花 書簡と九嵕山(きゅうそうさん)侵攻
「目指すは崋山の山麓、華陰ぞ。人民はすべて生け捕りにせよ。新たな宮殿の建設の人足となるであろう。逆らう者は、すべて斬り捨てよ……っ」
天武は輿には乗らず、殿を馬で走破していた。
一昨夜に「華陰を攻める」と発布し、秦軍が動くまで半日。我ながら素晴らしい誘導だ。
秦軍は滅ぼした国の連合でありながら、今や天武に畏敬の念を持ち、自ら兵になるものも増えている。兵たちは従順だった。否、強い者に従う理が生きる術、処世術だと自ら納得して、剣を受け取り、支配者に従う喜びを知る。
(だが、まだまだ統一には、遠い。やはり楚と趙は避けて通れぬわ)
先頭集団にいる天武に、兵の一人が横並びになった。
「天武さま……このような書簡が」
「出立前に渡せ」
手綱を片手に持ち換えて、天武は書簡を受け取る。
また貴妃が死んだかと思いきや、書簡には、こう記されていた。
『愁天武のような男が王になるのは、恐ろしい。民衆はすべて、権力の元に葬り去られる』
腸が煮えくり返った。いっそ従う兵全員を蹴落としてやろうか。しかし兵の大多数が文字を読めない貧民の出だ。
文字が読めるような男は既に重要地位についている。宦官として惨めな生き方を選んだ男も多い。
文字はきちんと配列に習い、気品のある文節で彫られている。
天武は書簡を八つ裂きにして地面に捨てた。何千の馬に踏み潰された書簡は、跡形もなくなった。
「咸陽承后殿内の、文字の書ける男全員を捕縛せよ。尋問の後、処罰を決める」
無情としか言いようのない言葉を吐き、ふと思った。
――貴妃にも文字が書ける女がいる。楚の庚氏だ。
まさかな、と天武は脳裏から考えを消去した。楚を思えば、天武を怒らせても得はしない庚氏が、下らぬ書簡を書くはずがない。
思慮しながらも剣を抜き、書簡を持って来た兵を難なく斬った。
――書簡を渡すときにニタついていたのが運のツキだ。自身を恨み、此の世を去れ。
*
馬の背に兵糧を乗せ、兵士たちは無言で道を急いでいる中、空を不意に見上げた「空が不吉だ」との天武が呟きから、俄に不安が広がった。
華陰に差し掛かる手前。名を持たない山がたくさんある山岳地帯。
騎道があるはずの場所には新たな山が出現していた。
――行く手を阻まれた。
平静を装って、辺りを見回してみた。
切り立った崖に、聳える高峰。春雷の雲は横に広がり、時折きらっと小さな稲妻を走らせる。首都・咸陽からも山は見える。霞を背負い、気圧されそうな山々はたくさんある。
咸陽から見える山麓よりも、ずっと威圧感を感じるのは、行く手を阻まれているからか。――雄大な風景は決して嫌いではないのだがな。
燕山山脈も負けず劣らずの霊峰であるし、九嵕山(きゅうそうさん)などは最も霊気が強く、人が立ち入る余地はない。
香桜は確か、天子の気は桃の木と柊だったと嘯いた。
だが、考えれば季節は夏。桃の木が咲いているはずがない。青梅雨の季節。柊もあるはずがない。
桃の言葉で急に頬がむず痒くなった。天武の脳裏に、翠蝶華の凜とした姿が浮かぶ。
桃を含んだ唾液は、しばし頬に痒みを残した。なにゆえ頬に桃をと問うた慣老には、適当にごまかしておいたが。これから向かう場所には、翠蝶華の想う男がいると聞いた。
(こんな時に、なんだ。これから侵攻だと言うのに)
だが、目の前に頓挫した山を通じて、脳裏に浮かんだ翠蝶華の面影は更に色濃くなった。
黒の長衣などより、鮮やかな赤の長衣が似合う。耳飾が合っていなかった。
――私の肩で、躰を震わせていたな……。弱そうな肩だった。
ふと脳裏の翠蝶華が扇子を構えながらも、背中を向けた。
〝秦の王は約束すら、守れないのですわね〟
約束……宮妓風情との約束を反故にするのに躊躇する理由が、どこにあるのか。
(では、叩かれた報復に首を持って見せたら、翠蝶華は泣くのだろうか)
二騎の内の一騎が天武の傍に寄り添った。馬捌きは天武にひけを取っていない。
「天武さま。武将が手綱を離すなど、あってはなりません」
将に言われて気付く。しっかり握っていたはずの手綱は、いつしか手から離れていた。
五月雨の合間の雷音は夏を呼ぶべく、不気味に轟き、春以上の嵐となる。
馬を嘶かせ、空を振り仰ぐと、雷雲があたかも龍の如く恐ろしく見えた――。
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