漢の徒蝶花 龍王の女 后戚(みせき)

 暁光の中、華陰に差し掛かる時、黄龍騰蛇が不意に怯え、翡翠の瞳を香桜に向けた。

 あまり見ない龍の怯えた行動に、香桜の声音が優しくなる。


「どうした?」


 龍はすべての生き物の王だ。大きさもさることながら、口から吹いた火は天の裁きとして、鎌鼬の風は竜巻を起こし、咆吼は地響きすら導く。

 誇り高き龍であるから、逃げようとはしないはずだ。明らかに龍は怯えていた。華陰の空を進もうとしない。

 天子の気は膨れ上がり、華陰の空を満たしている。どす黒い悪龍の気が蜷局の如く渦巻いている。龍は明らかに躊躇していた。


「大丈夫だ。何より、おまえは強い。行こう」


 以前と同じ、崋山に龍を向かわせ、降りた後で空に逃がし、龍は蛇行し、雲の向こうに再び消えていった。


 春雷の兆しの雲が空に広がっている。

 ふと、頬に滴が跳ねた。甘露の雨が靜かに降り出したのだ。


 水を含むと、土砂が滑る。だが、仙人には無関係だ。香桜は軽く足踏みすると、険しい山肌を滑り、駆け下りる。

 空中に浮かんだ雲気は、李劉剥の居場所を教えてくれた。

 地面を踏み固めていると、平野の中心に男と女がいるのが見えた。

 酒を酌み交わし、上機嫌の男に寄り添う女――劉剥と后戚だった。


「何をやっている! さっさと逃げろ!」


 酔った眼が、香桜を捉え始める。


「嗚呼、あんたか。俺の懐に妙な桃を置いてったのは。へへ。齧ってみたら、唾液が酒の味になるじゃねえか。水に放り込んで見たらよ、上級の酒……」


「秦の王が虐殺しに来るぞ!」


 歴史に干渉ができないので、それだけを伝えた。だが劉剥は動かない。


 前回に逢った時と何処かが違う。分かった。服が違うのだ。しっかりとした腰紐に二重に巻かれた束帯。さらに、甲冑。どう見ても、戦いに備えているとしか思えない格好だ。


「后戚。客」


(まさか愛妾と酒を飲んでいたのか?)

 呆気に取られた香桜に、劉剥は眼を細めて空を仰いで見せた。完全に酒焼けの声だ。


「青空の下で愛する女と酒を飲めるのが一番だ。それさえありゃ、俺は何も望まねぇ。空が意地悪しやがるのさ。あんた言ってくんない? あそこの雲に、邪魔だ、退け! と」


「そんな奇跡が可能なのは、天上の神だけだ」


 劉剥の眼が鋭くなった。龍の眼だ……と香桜は息を飲む。落ち着いた、王の貫禄。

 劉剥は椀に注がれた酒を飲み干し、傍の愛妾、后戚の頭を優しく撫でた。

 皮肉そうに笑いを零した後で、水の如く仙酒を飲み干す。引っ繰り返っていたのが嘘のようだ。


「あんたが何者かは聞きゃあしねえが俺には俺の流儀があるってもんよ。何も言わず、こいつ、どっか遠くに連れてってくんない? 翠蝶華の手の届かない場所にさ。燕の商人から聞いた。秦の軍は勝利の暁にゃ、略奪・強姦を許すんだってな。略奪は構わねえが、強姦は見たくねえ。女は捧げもんじゃねえ! おら、行け」


 女を乱暴に押しつけ、劉剥は立ち上がると、小脇に置いてあった剣を掴んだ。


「咸陽の王さまにゃ、平和ってもんが理解できねえんだろうなァ」


 さも可笑しそうに遠くを見やり、劉剥は持っていた剣を抜いた。平野のあちらこちらから、野太い声が上がる。驚愕で見つめる前で、劉剥はにっと八重歯を見せて笑った。


 ある者は木陰から、ある者は山岳地帯から。遊侠およそ二千人が鬨の声を発している。


 身なりは質素だ。持っているものは、鍬や馬を叩く棍棒や、洗濯するときに使用する板やら。武器とはとても言えないものばかり。そんな日常生活の道具しかないのであろう。


「無駄死になるぞ」


 香桜は声を潜め、瞳を強く煌めかせて見せた。


 龍の気を持つ劉剥には、香桜の異質さを感じ取れる何かがある。いや、動物特有の危機本能からか、劉剥は香桜に動じていない。 


「秦を甘く見るな……愛妾を遠ざけてまで、太刀打ちする相手じゃない。名が系譜にある以上、死なせるわけにはいかない。助けてやろう」


 ひゅうっと、劉剥の口笛が響く中、香桜は片腕をまっすぐに上げた。雲の隙間から龍が降りてくる。遊侠たちはただ、空を見上げた。

 渭南の華山と咸陽はおよそ二百四十里離れている。奇険天下第一山と呼ばれる程、華山は険しく雄大な山だ。龍が山頂近くで尻尾を振ると、竜巻が起こり、山は瞬く間に少しだけ削れた。怒濤の如く、土砂が渭南の街道に流れ落ちてゆく音が響いた。

 土煙は劉剥のいる平野まで届き、遊侠たちはおのおのの袖を千切って、口元を防護した。土煙が落ち着くと、辺りから少しずつ劉剥を称える声が上がり始めた。

 驚いたのは劉剥本人。わたわたと言い訳を始めたが、男たちは笑って劉剥を突き飛ばして喜びを分かち合った。


「えっ……俺じゃねえし……俺が龍様を扱えるかって! おい! 聞け!」


 しかし、男たちの喝采に、劉剥の矮小な叫びは飲み込まれてゆく。結局、劉剥は何だかわからなくなったらしく、心地よくなって、一緒に声を張り上げ、剣を掲げている始末だ。

 なんと幸せな男。天武とは常に真逆を行っている。


(天武は馬を使えば襲歩で、山麓への獣道を通り、一日足らずで辿り着く。が、道を埋めてしまえば、渭南を迂回し、遠回りをせざるを得ない。二日は稼げるはずだ。崋山を上がる以外になくなる。その間に民の逃亡も可能だ)


 一つの邑に二十万の兵力ともなれば、もはや一つしか考えられない。虐殺だ。

 燕の滅亡時に香桜は天空から有様を見ている。天武の陣形は卑怯とも言える囲み型だ。しかも王以外を落とし、じわじわと中心を攻めて行く。

 殷徳から地の弱さを聞いた天武は、燕を軽々と落とした。渭水の勢いを利用し、天武の率いる秦軍を飲み込ませようとした策略を逆手に取り、黄河の支流に追い落とすという、残虐きわまりない方法で。


 龍に引き上げた后戚の杏仁目が大きな滴を二つ、龍に落とした。先程から信じがたい事実に「何故に驚かないのか」と問うてみる。后戚は胸を張り、弱くもしっかりとした口調で答えた。


「私は、龍王の女でございますゆえ」


 后戚は霊峰の麓に下ろしてやった。


 その後、切り立った、険しい名もなき山頂から遠く離れた崋山の山麓を眺めた。


(ただ、俺は傍観するのみ。たとえ秦軍が大量虐殺を諮ろうとも、だ。――全く、貴人はよく働いてくれる。さすがは忌み嫌われた蛟。しょせん龍のなり損ないは龍に利用されるが相応しいと言う話か)


 ただ、劉剥だけは助かると信じる自分自身に驚き、香桜は暫く山麓から邑を達観していた

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