漢の蝶徒花 意地を張っていれば、待つのは地獄
遥媛公主と別れ、一人、渡り廊下を急ぐ。皇宮と遥媛公主の宮を繋ぐ子供宮の白楊宮に差し掛かった時、軽やかな音が耳に届いた。
と言っても、旋律ではない。掛け声に勇ましく地面を踏み鳴らすような舞の音だ。
(誰かが暴れておる)
人が増えると、問題も増える。ただでさえ、情事を済ませた躰は熱く、苛立ちがちだ。疚しいわけではないのだが、ついつい、人目を避けるのは、仕方がない。
遥媛公主に与えた宮殿は渭水に近い。水の音に混じって、一人の女が舞っている。夜の蝶が羽を広げ、飛び立つかのような動きだ。人影は他には見当たらない。
翳っていた月が姿を現すと、月光の中、黒曜石色の長衣が見えた。
普段は赤立羽蝶のような紅を中心にした衣装を好む翠蝶華だ。
今夜は黒揚羽蝶の如く漆黒の長衣を揺らしていた。耳飾だけは赤い。陽炎の如く揺れている。
喪の舞だ。音楽はない。
翠蝶華の頭の中には優しい音楽が流れているのか、一定の動きで折扇が翻っている。
月光を受け、あたかも打ち返すかの如く翠蝶華が動くと、寂れている宮殿も息を吹き返した。時折シャランと耳飾が音を立てている。
思わず足を止めたが、気付かれると、厄介。
迎えに来た兵士と出会ってしまい、名を呼ばれ、舞っていた翠蝶華の動きが止まる。
「まあ、偶然」
驚いた風でいて、完全に不審に思われている口調だ。袖で口元を覆い、ちらりと視線を上げるのは翠蝶華の不機嫌な時の癖だ。
天武は手を掲げ、兵士を追い返す。
永巷からようやく離れた翠蝶華は皇宮内の女官宮に住まわせている。何故、遥媛公主の宮殿にと考えた前で、翠蝶華の目が吊り上がった。
「秦の王は、約束一つ守れないのですわね」
いつもの喧々とした口調で睨んだ後、頬を赤くして、背中を向けた。
「野暮な言葉は申し上げませんが、少し抑えてくださいません? 男らしさが溢れてございますわ。全く、男って」
恥ずかしそうに呟くと、翠蝶華は、こほ、と小さく咳をしてみせる。
ふと、翠蝶華はどんな風に抱かれ、達するのかと、脳裏を莫迦げた思考で桃色に染めたが、次の言葉で、一転して暗雲が垂れ込めた。
「私は、自分本位な王の貴妃など務められる愁傷な女ではございませんの! い、いい加減に、胸元をお隠しあそばせ!」
どうやら、はだけたままの男の肌の目のやり場がないのだと怒っている。
「もう、嫌だわ。恥じらいがないのかしら……」
とか何とか、一人でぶつくさやっている翠蝶華の肩をゆっくりと押さえた。小さく肩を震わせ、翠蝶華は更に背中を向けてしまった。
(この反応……生娘か)
男の唇を撫でたり、悩ましげな視線を投げたり。翠蝶華は確かに小技には長けている。しかし、経験が豊富であれば、男の胸板が見えた程度で頬を赤らめたりはしないものだ。
「済まぬ。服を整えた。顔を上げてくれないか? 何度でも、そなたに言う。貴妃の位を用意する」
「要りません」
翠蝶華は決まって天武からの貴妃への誘いには頑とした口調で、反論させまいと更に口調を強くして、約束を果たせと繰り返す。
「どうしてもと言うならば、ご自分で李劉剥の愚か者を、ここに引きずっていらして」
想定内だ。天武もまた、翠蝶華の想定内の言葉を返す。完全なる鼬ごっこだ。
だが、不思議と嫌ではない。いつでも翠蝶華は、真っ向から噛みついてくる。辛辣ではあるが、嘘がない分、至極爽快にさえ思えるのだ。
「秦は広い。もしかすると、李劉剥も、そなたを追いかけて、咸陽……」
翠蝶華の瞳が大きく揺れたのを視認して、天武は言葉を止めた。
夜に、夜の色の髪が静かに舞った。今夜の翠蝶華は、やけに愁傷に見える。
「それは、有り得ませんわ。……天武さま。男は蝶、女は花。あの男には、他に羽を休ませられる花があるのですわ」
「では、どうして、そなたは探す」
愚問だ。だが、聞かずに居られるものか。いや、聞くべきではないと分かっている。
よほど哀愁漂う表情をしているのか。翠蝶華の声音が和らいだ。
「まあ、そんなお竜顔を見せられては、毒が吐けませんわ。本当を言いますと、分かっておりますの。劉剥は私の花には止まらない。同情は、お止めになることですわ!」
悲鳴のような声に手を止めた。だが、翠蝶華はぴしゃりと、無意識に下瞼を指で拭っていた天武の手を払いのけてみせる。
庭の蓮の葉が大きく揺れる情景を眼に映し、天武は穏やかに告げた。
「もうじき、夏が来る。夏は好きだ。花が咲かぬ」
「咲きますわよ。大きな睡蓮が咲くのは、常夏月。常夏の花の盛りの月ですわね」
花の言葉を連呼してきた。忽ち天武は苦虫を噛み潰したような表情になった。
翠蝶華は渡り廊下から見える蓮の池を背に、天武を振り返った。
「噂では、花の名のつく貴妃及び、武官を遠くに追いやったとか。女がお嫌いのようでしたわね。それなのに、抱くのだから、やはり男は、冷たい生き物」
「そなたの言いぐさのほうが、男を毛嫌いした上、冷たいが」
翠蝶華は持ち前の吊り上がった眼で天武を見据えている。
(どうにも、翠蝶を相手にしていると、底意地が悪くなるな)
本当は分かっている。桃の木の傍で、翠蝶華は泣いていたのだ。目が赤かった。そうして今夜も、死者のために、誰も気付かない場所で、舞っていた。
ふと顔を上げた瞬間、激しい殴打音が鼓膜を揺らした。
つうと口角から冷たい血が顎に滴る。さっと翠蝶華は視線を逸らせた。宮妓用の扇子は、見栄えを良くするためか、少々大きく、頑丈だ。前言撤回。何が愁傷。
さすがにやりすぎたと自負したのか、翠蝶華は扇子を開くと顔を隠してしまった。
「血……? そなた……殴ったな……っ」
翠蝶華は負けじと怒鳴り返した。
「死罪にでもしたら宜しいではありませんの! お得意の拷問とやらで!」
腹の中が、かっと熱くなり、親指で血を拭って、翠蝶華をきつく抱き締める。頭を引き寄せ、掠れ声で囁いた。
「殴りたいのは私ではないのだろうが! 意地を張れば……」
――意地を張っていれば、待つのは地獄。
(分かっている! ……それでも、意地を張ってしまうものよな、翠蝶華)
柳眉を下げて、翠蝶華は俯き、唇を震わせて、天武の肩に涙を染み込ませた。
「お、怒らなくてもいいじゃない……っ……」
先程から不快な美しく、恐ろしい琵琶の音色。聞いていては狂いそうな二本の音色。絡み合う音を聞いていると、間違えた言葉を発しそうになる。
翠蝶華の頭を撫でている間も、琵琶は続いていた。
段々と音が鮮明になった。皇宮の方向から近づいてくる。
泣きじゃくっていた翠蝶華が泣くのを止め、顔を上げた。
「琵琶が……五絃琵琶……」
宮妓ゆえか、翠蝶華が興味を示している。
ゆっくりとした速度で、琵琶の音は二人に忍び寄った。やがて音は、見事な螺鈿細工の石琵琶になり、琵琶を弾く男になった。
「惜しいな。これは直頚琵琶」
「そなたの音色は、不愉快になる。下がれ。香桜よりずっと悪意がある」
目が赤く見えるのは夜のせいだろうと思う。翠蝶華がぶるぶると天武の腕に掴まって、震えている。
「何だ。ここは馬の上ではないぞ」
「もの凄い、龍気ですわ。分かりませんの? 思えば李劉剥も、蛇のような龍のような気を常に漂わせておりましたわ」
「月宮(げっきゅう)の常娥(じょうが)」
「まあ! 私、蛾が大嫌い。蛾に例えるなんて」
「落ち着け。常娥とは古代物語の天女の名前だ。……そなた、存外、そそっかしいのだな」
翠蝶華は頬を赤らめ、ぷいと顔を背けたかと思うと、髪を揺らして皇宮の道を歩いて行ってしまった。
琵琶を鳴らした男を天武は神宜しく見下ろす。
「華陰に、月宮の常娥の想い人がいるのを知っている……。その男は兵を集め、秦に刃向かう。直ちに軍を率いるが良い……」
――東南に天子の気がある。確かに自分が言った言葉だ。
東南の天子の気、李劉剥は龍の気を常に漂わせている……華陰には翠蝶華の想い人がいる……。
まさかと、天武は琵琶を爪弾く手を呆然と見やった。蛟の仙人、蛟龍仙人貴人は冷ややかに天武に囁いた。
「そう。賢き秦の天子。李劉剥こそが、天子の気の正体」
呆気に取られた天武は、銅剣を落とした。落ちた銅剣を拾う者がある。香桜だった。
ニィと蛟のような貴人の目が細く伸びる。蛇の眼をした貴人を追いかけようとした香桜に、天武は銅剣の切っ先を向けた。
「申し開きは不要であろう……そなたを信用していたのだが」
天武は銅剣を突きつけたまま、まっすぐに香桜を睨み、嘲った。
「直ちに兵を整え、華陰に向かう! 李劉剥については、首実験だ。確認した後で殺してやる! 次は、そなただ。覚えておけ」
天武は皇宮に声を張り上げた。
「勇敢なる秦の兵たちよ! 兵糧を整えよ! 目指すは東南の華陰。第二の督亢だ。燕の残党及び、天子の禍根を断ち切る!」
*
「騰蛇! 来るんだ!」
走りながら、龍を呼ぶための耳飾の翡翠水晶を空に投げた。咸陽に黄龍が舞い降りる。
香桜は一路、華陰の空を目指して飛翔する。
歴史のままに、秦は漢を滅ぼすだろう。
だが、その前に、あの男だけでも逃がさなければ……!
琵琶が鳴り響く中、龍の背に乗りし天帝の姿は夜の闇に飲まれていった。
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