漢の蝶徒花 九嬪の陰の気
目を伏せると、数千の死体が浮かぶ。中心で笑っている顔がある。当初は顔を思い出せなかったが、何度も訪れる幻影は、まごうかたなき、脳裏の記憶だ。
天武は手を止めた。宮殿の設計の計算が途中だが、集中力が欠けてしまった以上、また歪んだ宮殿を設計する恐れがあった。
先程香桜とみた、惨殺な場面が、天武の脳裏にちらついては消える。
――私は、間違ってなぞ、おらぬ。すべて実力で手に入れた。
思い出すのは、渭水の戦いの瞬間だ。否定すればするほど、重くのし掛かった。
燕を滅ぼし、秦と燕の人心を手に入れた天武の宮殿には兵士、宦官、貴妃、妃嬪を合わせて四千人ほどが犇めいている。元から忠臣の丞相や慣老、それから、花芯の父、奔起に、礫……心許せる人間は僅かだった。
入口から雅な香が鼻を掠め、紐が揺れた。天武は設計図の書簡を畳み、顔を上げる。湯浴びをした髪が重く垂れて、肩に降りた。
「入れ。構わぬ」
幾人に支えられ、髪を下ろし、羽毛にくるまれて立っている遥媛公主を、目で見やった。
斉の美女、斉の桓公王の娘の、遥媛公主。斉は王自ら娘を差し出し、奸計を許され、滅亡だけは免れている。そもそも王は一人で良いのではないか……地に何人も王と呼ぶ者がいるのは、混乱を招く。
何より、統一を進めている天武と、奪われてゆく国の諸侯が同じ呼び名では、示しがつかない。否、自尊心が許さない。
(何か、良い呼び名を考えなければ)と深慮に耽った天武の手に、ほっそりとした女の手が重なった。
顔を上げると、いつしか遥媛公主が近寄っていた。連行された時に受け取った高級そうな布を肩から羽織ってはいるが、裸体だ。武器を隠し持ち、王の暗殺など企てぬよう、一切の服を剥ぎ取られ、貴妃は連行される。そう命じたのは、天武だった。
「相変わらず。美女を目にしても、心は外に有る様子。その態度はどうかと思うが」
尤もな意見に、ふと笑って、天武は遥媛公主を覗き込んだ。
「考えねばならない懸案事項が山積みだ。貴妃遊びをしている暇など……そうだ、遥媛公主。先日の貴妃の死はどうなった。対策を講じたが」
対策の中で、依然として供給されてくる貴妃の統括は最優先になった。まず階級に分けた。即ち、徳妃・賢妃・淑妃・貴妃を位とし、下に妃嬪を置く。
上の階級の貴妃との逢瀬の回数を増やし、目下は三ヶ月で一回りするよう、日程を太陰暦に合わせて決めた。
遥媛公主の位は、淑妃に当たる。上階級の貴妃には宮殿を一つ与え、天空の飛馬座を象った一角の極星に見立てて配置する。
渭水に並べる宮殿の数は、黄道の星に習い、八十八……だが、九を重んじる重臣たちがこぞって反論するので九十九、とした。古代より九は運命を呼ぶと卜占にて伝えられている。絶対の運命数を身につければ不運を退くと信じられていた。
天武は遥媛公主の肩に腕を回し、人差し指で細い顎を持ち上げ、口づけを与えると、牡丹の花びらのようなしっとりとした朱唇が緩く開いた。
見え隠れする雌蕊に、舌を絡めながら、背丈のある四肢を、優しく牀榻に押し倒した。どこからか琵琶の音が聞こえる。
「琵琶が……」
ふと上半身を起こそうとしたところで、遥媛公主の腕が強く天武を引き寄せた。
中に誘うべく手が天武の根を支えているのに気付く。反り返った先端は、濡れた花に触れていた。挿入を果たしたとき、潤んだ瞳は、まっすぐに天武を映していた。
「……そなたも、殷徳も、手ずから私を誘う。女は、こうも積極的なものか」
「私を前にして、どこぞのつまらぬ琵琶に心を奪われるのは、貴妃として許せぬ。そなたは、私の中で溺れるが良いわ」
不遜な言い方だが、天武は言い返しはしなかった。
――殷の天子が寵姫に溺れ、色情に狂ったという事実も、分からないでもないな。
遥媛公主の麗しい髪が一際大きく揺れ、天武は涙目で、遥媛公主を見下ろした。
気持ちがよいくらい、好意が伝われば、自然と優しさも滲み出るものだ。
「遥媛公主……随分と艶やかな目をする。好いか」
「好いから……揺れるまで……」
性急な殷徳とは違う。遥媛公主の動きは、あくまで緩く、子宮の中の羊水の動きだ。
ゆるゆると動きながら、天武は遠く視線を向ける。体内の精気が沸騰しそうに熱い。最高潮に達するのが分かる。
口を押さえ、天武はそこで躰を離すべく、腰を引いた。
不思議そうな遥媛公主の顔に指を這わせ、片手で鈴口をきつく押さえて、上半身を仰け反らせた。血が逆流する。
――天からの気が、体内を食い荒らし、穿っているのが分かる。白く視界が閉ざされる。
激流を飲み込んだ額からは汗が滴り落ちる。遥媛公主が弱々しく呟いた。
「絶対に射精しないという噂は真か。躰に良くないと思うぞ」
天武は顔を上げない。遥媛公主の寂しそうな声が耳に届いた。
「そうして意地を張っても、辿り着くのは地獄だぞ。……天武」
呼び捨てに漸く気がついた天武は顔を上げた。
体内を逆流した精子は元の場所に戻れず、彷徨っている。遥媛公主は唇を尖らせた。
「せめて抱きかけた相手の抱擁くらい、しろ。人肌恋しくさせたまま女を追い払うなどと、男の風上にも置けぬ」
爽快さを感じるほどのサバサバとした口調で、遥媛公主は天武の腕を取る。遥媛公主の肌は、象牙の如く冷たい。
――元々、女の嫋やかさを感じる心など、持ち合わせてはいない。
天武は遥媛公主の腕を振り払い、腰紐を強く締め、束帯を巻いている。
「斉を滅ぼすなら、相談を」
再び腕を絡ませた遥媛公主が呟いた時、入口で宦官の声がした。
宦官どもは常に異臭を漂わせるために、すぐに分かる。性器を切除し、尿管だけを残す秘術だ。どうしても尿の匂いをさせる宦官どもは行為中でも踏み入った挙げ句、貴妃を引き剥がすのが役目だ。
「自分で行ける! すぐに出る。去るがよい」
遥媛公主は一声を鋭く発すると、天武から離れ、やがて姿を静かに消した。
「辿り着くのは地獄だと?」
夜を包み込むような琵琶の音色が響いている。香桜の笛の音より、攻撃的な音色だ。
人を揺さぶらずにいられない琵琶の音。
天武の手が震えた。暗殺に備えて置いてある銅剣を掴み、牀榻に振り下ろした。
いつもこうだ。貴妃との夜を過ごすと、無作為に何かを斬り殺したくなる。
違う。本当は――絡みついたままのねっとりとした女の匂いごと、自分を刺し貫きたくなる。牀榻の作りは頑丈で、銅剣などでは斬れそうになく、未来を思えば、自身を斬り殺すなど出来るわけがなかった。
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