漢の蝶徒花 平野の火葬

「ここにおられましたか。随分と山肌は険しかったでしょう。馬では無理な山道ですよ」


「趙で、良く乗っていた。それに朱鷺は、私の足に等しい。帰ったか。それで、天子の気は」


 全部の質問が終わらない内に、天武は言葉を打ち切り、返答を促す。

 香桜は、しれっと答えた。


「人ではございませんでしたが、桃の木と、恋人でしょうかね。傍に柊がありました」


 嘘は言っていない。天武の顔が、見るみる不快に染まる目の前で香桜は膝をついた。


「夏朝期に二人の天女が桃を落とし、その桃が妖力を経て、崑崙の神になり遊ばしました。ですので、桃の木が天子の気を発するとして不思議はございません」

「そなたは、嘘を重ねる方士か。聞き質そうと思っていた。どこからやってきた」


 香桜は、にっこりと笑って、悠々と答える。


「東峰の国から、砂漠を越えて」


 天武は当然ながら、返答をしない。基本、天武は人に内面を語らないのは分かっている。


「先程も、一人、斬った。そうしないと、あの者の口から何やら出てきそうだったのだ。香桜」


 夜風に髪を靡かせながら、天武は靜かに骸たちを見下ろした。


「私は、神など信じておらぬ。それであれば、私が神となろう」

「なぜ死者を弔わないのです?」


 神気取りかと、些か口調が冷たくなった。拳が僅かに震えているのが分かる。

 天武は目を細めて、遙か下方を優しく見下ろしていたが、淡々とした口調で告げた。


「この者たちにも未来はあったのであろう。もしかすると、この者たちこそが、また時代の主役になるべきかも知れぬ――。兵が死ぬ度、思う」


 ――後悔を知らない、主観を交えない話しぶりだ。


 香桜は横笛を構えた。夜に厳かな笛の音が響いてゆく。それだ……と天武が呟いた。


「そなたの笛の音が聞こえぬと、夜が恐ろしく長い。眠れないのは、そのせいだ」

「恐れ入ります。今夜からはお側におりますゆえ、いつでもお聞かせ致します」


 天武は返事をしないまま、今度は目を細め、表情を険しくして話題を変えた。


「騎馬七千、甲冑二十万、青銅剣十五万、兵士二十万……」

(新たな兵の調整?)と窺った前で、天武は顔を険しくさせる。


「準備が整い次第、自ら指揮を執り、趙へ向かう。道すがら、華陰の天子の気の桃と柊を処分する」


 内心ひやりとしたのを見抜かれないよう、通常より声音を和らげた。


「時期尚早でございます。趙は未だ、勢力を固めてはおりません。武器を取る日まで待たずして、攻めれば人心が瓦解し、周の王朝の如く反旗を翻されるでしょう。そうなれば、後宮を利用し、穏便にゆこうとしている計画は砂上の楼閣となり、消え失せる」

「後宮を使っているのは、穏便に、というよりは、利便性を考えての策だ」

「穏便に済ませる、よい方法です」

「穏便? 有り得ぬ。生きるか死ぬか。後宮なぞ、要らぬわ。邪魔にしかならぬ」


 天武の口調も、いよいよ不快を現し、荒くなって来る。

 劉剥の姿を思い浮かべた。


(せめて、あの男は逃がさなければ。できることならば、愛する美姫も一緒に)


 自分の思考を読んで、香桜は二重に唇を震わせた。

 ――あるまじき事態だ。天帝ともあろう、俺が人間に惚れ込んでいる……。


「それより、楚を手中にすべきでしょう。庚氏妃から閨で情報を聞き出せば、楚は落ちる。殷徳の時のように」


「庚氏は、そこまで愚かな女ではない。先日も宮殿設計の書簡を見、計算違いを指摘してきた。聡明な女だ。それであれば、斉。ちょうど良い。今夜の相手は遥媛公主だったか……食後に引いた札は、赤であった気がする。また戻らねば李逵がうるさい」


 ああ、それで遥媛公主が普段は来ない皇宮側にいたのかと、香桜は納得した。

 お相手の貴妃は、早々と皇宮に滞在する。身体の検査をされ、見張られて夕食を摂り、最終的には全裸で王の寝所に送り届けられる仕組みだ。


 猟師も躊躇する急斜面を天武はものともせず、駆け下りて行った。見事な手綱捌きだ。


 ふいに背中に火の鳥の気配を感じ、香桜は笑い出したくなった。


「遥媛公主。隠しても、怒りの気は抑えてはいないよ。あの言い方では無理もない。そう怒るな」


「閨では気を乱れさせてやりたい思いでございます。よくも私を、ちょうど良いなどと」


 頭上の遙か上空の木の先端から、遥媛公主は飛び降りてきた。


 ふわり、と香桜は腕を下方に眠る兵士たちに向ける。遥媛公主も同じく視線を落としたが、顔を背けていた。有る者は、手をがくりと下げたまま串刺しになり、有る者は胸を烏に啄まれて、白い骨を見せていた。とうてい人間如きが心靜かに眺めていられる風景ではない。


「何と無残な。こうも人間は無慈悲か」

「そなたの火の力で、焼いてしまおう。俺も風で援護する」


 遥媛公主は頷くと、孔雀の扇子を構え、軽く振った。先に小さな炎が生まれ、飛んで、骸の間にぽとりと落ちた。轟音を立てた天の火が、兵士たちを照らすかの如く燃え尽くそうと、縦横無尽に飛び始める。


 白靄が一瞬だけ輝き、すべて天に還ってゆく。志を半ばにして死した兵は、若い者が多い。遥媛公主の火を、香桜は風で煽ぎ、決して水では消えない炎は瞬く間に平野を焼き尽くし、浄化した。

 やがて、兵士たちを弔う炎は遥媛公主の芭蕉扇に戻り、そこには灰燼があるだけになった。ゆっくりと芭蕉扇を下ろした遥媛公主が、短く呟く。


「天武は仙人なのかも知れませんわね。やり口があの男にそっくりですわ」

「白龍公主? それは、ないな」


 香桜も手を下ろして、灰燼を見下ろした。


「天武は明らかに人間だ。時に人間は、我らよりも残虐だからね」


「良く言いますこと」と扇の向こうの双眸で香桜を睨み、遥媛公主は踵を返した。

「私は今夜のお相手がありますので、失礼致します。宵の時間に宦官が来て、裸にされて、羽毛にくるまれて負ぶわれて連れて行かれるのです。屈辱ですわ」


 斉の美女になど、なるのではなかった……遥媛公主の心が読めた香桜は、一人、笑った。


「遥媛公主。迂闊に飛ぶなよ」


 注意するも、遥媛公主はちらりと視線を向けたが、ふわりと浮いて、消えてしまった。



 今後も、まだまだ人は死ぬ。時代が動く時、生死も激しく流動するものだ。

 空には凶を表す流れ星が流れていた。

 平野が燃えた事実に関して、天武は何の興味も示さなかった。

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