漢の蝶徒花 後宮の妃嬪殺害と、花の貴妃
落陽が渭水の水面を金色に染め、佇む宮殿を照らしている。
時折吹く風は、砂埃を舞い上がらせた。山陰の影が長く伸びている。
険しい山麓を背に、夕焼けに浮かぶかのような橙に染まる咸陽承后殿。龍を封じ、歩いている香桜の目の前を通りすがりに、荷車が物々しく他人目(ひとめ)を避け、闇を待って走り去った。
彫刻が施された後宮の正門には様々な人々が集まって溢れ返っており、門番が鑓を翳して荷車の道を空けさせていた。
荷台の上には布を掛けられた遺体が一つ。はみ出した腕の宝飾の煌びやかさで、後宮の女だと分かる。
――また貴妃が死んだか……何人目だ?
ふと、人だかりの中に、一際ぐんと大きな背丈の女を見つける。遥媛公主山君だ。庚氏の姿も見える。花芯妃と殷徳の姿はない。翠蝶華は少し離れた場所で、顔を背けつつ、遺体を見送っていた。
興味津々で荷台を見ている遥媛公主に近づき、肩に触れた。
「遥媛公主、奥へ行こう。来るがいい」
鬱蒼とした針葉樹林に向かって、頷いた遥媛公主と香桜は共に足を向けた。
夜空の紺色の境界線は、すぐそこまでやってきていた。
*
「死者は、二人か」
「一人は宦官です。仙術の仕業ではないかと騒ぎ立てたので、天武が斬り捨てました」
木に寄りかかった香桜は軽く頷く。遥媛公主は麗しい貴妃姿で傅いていた。
天武は横暴を通り越し、時には残虐だ。何となく目に浮かぶ。恐らく誰も止められない速さで剣を抜き、断末魔も許さず貫いたのだ。
「天武は、どこへ」
「遺体を山に擲てと強く命じて、つい先程、外に出てゆかれました。香桜さま。殺された貴妃は、昨晩の夜伽を命じられた妃嬪です。どうやら天武さまがお相手なさると、翌日に貴妃が死すようですわね」
香桜は、ふと考え込んだ。――他の貴妃の嫉妬? 有り得るな。
天武が斬った宦官はともかくとして、こうも人に知られずに人を殺せるか?
毒を入れるとしても、貴妃たちは決まった時間以外に動けない。厳重に管理されている人質だ。
ましてや、情事の時間ですら、宦官や丞相たちから見張られている。貴妃同士の交流を天武は認めていない上、勢力争いに巻き込まれぬよう、四妃はそれぞれ違う宮殿にいる。しかも宮殿の行き来が可能なのは皇宮からの渡り廊下しかない。
つまり、天武以外は各宮殿を自由に歩けない仕組みだ。
すべては暗殺に備えた用心。天武は燕の一件で、暗殺を恐れている。
「香桜さま。いいえ、あえて天帝、龍仙一香真君と申し上げます。何故に、天の華仙界の統治者、天帝たる貴方さまが、あのような人間に傅くのです? 酔狂にも程がございますわよ」
遥媛公主の問いは尤もだ。香桜は目を伏せ、ひらひらと手を振って見せる。
「元々、俺は酔狂な天帝なんでね。――遥媛公主」
言うが早く、遥媛公主は袖を合わせ、落ち着いた大人の女性の低い声音で答える。
「分かっております。これ以上、我が華仙界の仙術で人間を殺させるわけには参りません。火棘の毒は、いずれこの時代にそぐわないものだと分かるでしょう。文化が混乱しますわ」
「頼む」
短い香桜の言葉に目で頷き、遥媛公主は、あら、と呟く。
「子猫がいますわ」
薄衣を深く被り、年頃の娘らしい桃色の貴妃服が、木々の間から見え隠れしている。
香桜は小さく手を振り、爪先を向けた。遥媛公主は無言でその場を離れてゆく。姿が瞬時に掻き消えたところを見ると、飛んだか、消えたかだ。
迂闊に仙術を使うなと注意せねば。と呆れた前で、ころころころ……と何かが転がる音がした。やがて香桜の足下にこつんと当たったのは、水晶だった。
腰を屈めて拾った時、子猫が慌てて身を隠したのが、視界の端に映った。
「見えてるよ。花の貴妃」
持ち主は、天武の怒りに触れ、遠くの宮殿に追いやられた花芯妃。
花芯は被きを両手で強く握り、しゃがみ込んで動かなくなった。
香桜が近づくと、更に背を丸めて小さくなって見せる。細い腕をぐいと持ち上げると、薄衣がはらりと地面に落ち、花芯の顔が露わになった。
綺麗に輝く、亜麻色の瞳。ほんのりと色づいた桃のような頬。朱唇は薄く、朱色の紅が少し顔立ちを大人に見せている。天女以上の美貌が、そこにある。
――これはこれは……想像以上だ。
「お返し下さいませ!」
花芯は香桜が拾った薄衣を奪い返そうとした。
だが、香桜は、すいっと懐に入り込み、花芯の髪を上げて見せた。
蕾が花開くような香しい雰囲気だ。この感じは、人間の女の持つものではない。
(……まさかと思うが)
天女の言葉が頭を過ぎる。だが、花芯の名の女華仙人など、知る由もない。天帝の立場上、すべての仙人は把握しているし、第一、これほどの美人を見逃すはずが……。
香桜は、もっとよく見ようと、上半身を花芯に近づけた。
「お返し……下さいっ……」
至近距離に耐えられず、花芯は俯いてしまった。はらはらと頬に涙がこぼれ落ちる。
「天武さまには見せられぬ顔です。子供で、夜の相手もできないの!」
「それは、俺でなくて、お慕いしている天武さまに言えばいい」
頬を紅潮させたまま、花芯の瞳は香桜を捉えた。
「ああ……」と顔を覆って泣き出した花芯の頬に、優しく指を滑らせた。一方で、片手で弾ませていた水晶を手に返してやる。
「俺がおまえを、もっと美しくしてやろうか。そうだな。天武が毎日おまえを抱かずにいられなくなるような、傾国の美女にだ。俺なら、できる」
聞いていた花芯の手から水晶が転がり落ちた。
――好色は、仙人の特権。文句を言われる筋合いは、ない。
香桜は、冷ややかな瞳を隠す、虚構の微笑みを向けた。
別れ際に聞くと、外に出て行った天武を追いかけていたという。
渭水の河岸。香桜も馬を借りて、夜の咸陽を疾走した。さすがに天武が近いところで龍を出すわけにはいかない。
瑠璃の空の下で、馬の蹄の音が響く。香桜は水の潺に耳を澄ませた。時折ふっと咆吼のような、嘆きのような声が聞こえてくる。
先の戦いで、死んだ兵たちが朽ち果てていた。
放置されたままの兵士の骸から、白い靄が立ち篭めている。
香桜は再び馬に跨がり、手綱を引いた。
――天武は少し離れた霊峰から、態を見下ろしていた。
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