漢の蝶徒花 天から見下ろす、天の気の正体

「おい」


 香桜は空になった椀を引っ繰り返ったままの男の頭にぶつけて起こした。んむ~…と劉剥は気だるげに瞼を上げて見せる。岩室には男たちがあらゆる場所で引っ繰り返ったままだ。後宮にいた香桜には、えらく小汚く感じるのは、仕方がない。


「酒が大いに効いたようだな」

「落ちていたのか……どのくらい過ぎた……あー……」


 香桜は僅かに首を傾けて、髪を揺らす。


「半日程度。体内で酒精度が上がり、急激に体内温度が上がる。だが、二度酔いはしないはずだ」

「あんた、酒屋か」


 否定も面倒なので、香桜は頷いておいた。劉剥は、驚くべき言葉を口にした。


「仙酒を知ってるか?」


 香桜は、そらとぼけた。


「いや、知らないが? 仙人の酒? そうそう、蓬莱山や崋山に落ちた桃が芽を出し、天上の桃に成り代わり、仙桃が溶けて酒になったか……だったか」


 真、人間の発想力には驚かされる。龍を神の使いだと崇めてみたり、桃が至上の楽園であると仮定してみたり。興味は尽きない。


 からかうつもりで話に興じていたが、やがて劉剥は砂埃を手で払い、立ち上がった。


 背丈は香桜よりも低い。威圧感を感じる理由は、背中に見え隠れする蛟龍の幻影。天の気の正体だ。


「そなた、背中に龍が見えるぞ」


「あいつと同じ言葉、言いやがる。見目はいい女だが、少々鼻のつく宮妓」


 ぼそりと呟いて、劉剥は顔を背けた。


(――鼻のつく宮妓……もしや、翠蝶華か)


 確かに勝気そうな口元の永巷で見た翠蝶華を思い浮かべた。酔狂で笛を聞かせてやった時は、紅の蝶の如く、ふわりと音に合わせて舞っていた。


 しかし進んで永巷に囚われた真意は、わからない。天武の言葉を借りれば「女は分からぬ」だ。


「その宮妓は、紅玉の耳飾をしているか」


 劉剥は驚きもせずに、短く肯定した。


「そうだ。結納の際、俺がやった。紅の長衣に似合うと思って。あー、俺は、あの女苦手。どこでも見つけやがるんだ」


 劉剥はふっと笑って、肩を竦めた。


「さすがに華陰までは、女一人で来られねえけどな。翠蝶華は后戚を狙うから、こんな僻地で暮らさせてやるしか、できねえ。あの女の父親は、沛の名士だ。逆らえば殺されちまう」


 別の女を連れ、許嫁の翠蝶華から逃げ回っているという話か。香桜は皮肉に笑い、軽く告げた。


「精々刺し殺されないように注意しろ。俺は、そろそろ行くとする」


 劉剥も一緒に立ち上がると、おら、と寝ている男を蹴飛ばして道を空けさせた。岩室の蜥蜴の住処になっている通路を往訪と同じ、並んで登りつつ、劉剥は香桜を振り返る。


「あんたの命は見逃してやらぁ。見えるぜ。背中の黄龍! 龍様を殺すほど、人生を投げちゃいねえ」


 岩室を出て来た劉剥を見るなり、馬が逃走した。鬣を毟られるのがよほど嫌なのだろう。馬を追いかけて、劉剥は遠くに去って行った。何とも生気溢れた男。


 ――天子の気は突き詰めた。咸陽に戻るとするか。


 指を唇に宛て、ひゅっと音を鳴らすと、雲の間から騰蛇がゆっくりと姿を現し、降臨した。曇天の雲は何処かに姿を消し、いつしか夜の帳が降りていた。

香桜は龍の角に掴まり、天に上がってゆく。足元の華陰が瞬く間に小さくなった。

涼風に腰帯が揺れ、巻き付けた紐が流される。


 地上が見えなくなる前に見下ろすと、裸馬に乗った劉剥が走っている様子が見えた。驚いたが、馬を捕まえたらしく、空も見ずに走っている。


 田園がのどかに広がっていた。牛耕の跡も見て取れる。舗装されていない獣道に何頭かの馬が集まっている。

 後方には、険しい霊峰崋山の雄大なる姿に、遠く流れる黄河の漣。


 広大な土地に懸命に生きている人々が淘汰される理由はない。しかし、時代は天武を選んでゆく。こればかりは天帝でも、どうすることもできない。


「華陰の者どもよ! しばし休息せよ! 秦の軍は、いずれやってこよう」


 天武が人の溢れる豊かな地を見逃すはずがない。ましてや華陰は、燕の残党がいるとされる。青銅の武器を見直しているのは、進軍の予兆の他ならない。

 華陰は趙に至極近い平野だ。天武は華陰に天子がいると知れば、一斉攻撃を必ずや視野に入れる。華陰は第二の燕の首都、薊(けい)北(ほく)になりかねない。


香桜は宮殿ほどもある龍の騰蛇の頭を優しく撫で、背中に座ると、強い口調で呟いた。


「李劉剥――いずれ、そなたは時代を動かすのであろう。息災であれ」と。


夕暮れの中を蛇行する龍の気が、雲龍となって、夜空を飾る。

朗々とした声に、龍の髭が長く伸びた。

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