漢の蝶徒花 岩場の賭博、天の酒
立てかけられた銅板に、削った鳥の頭蓋骨が二個、転がっている。
よく見ると、骨には乱雑に値が彫り込まれており、使い古された椀が無造作に置き晒されていた。
劉剥は散らばっている道具を拾い、尖った岩に手を掛け、慣れた足つきで、中に滑り込んで姿を消した。
――てっきり、咸陽に向かうかと思っていたが。
劉剥という男の人となりが、見えた気がする。豪快で、何やら人を引きつける力は貴人の与えたものではなく、天性だ。
「しばらく遊んでおいで」
龍を翡翠には戻さず、天に解放する。人々が眼にしたところで、守護神に深く畏敬の念を送るだけだ。別段、問題はない。天に舞い上がった翡翠の龍騰蛇は、華陰の曇天の空に消えて行く。暗雲が垂れ込めて、春雷が訪れそうな空だ。
続いて香桜も、岩場の隙間に滑り込んだ。中は暗いが、蝋燭を無数に壁に下げ、廊下のような作りになっている。
階段とは言い難い暗く湿った段差を降り、劉剥は進んでいった。香桜は背を壁につけて、劉剥を見やる。ふと、劉剥が振り返った。
ぼろぼろの上着に、丈の短い長袍らしき服。裸馬に食いちぎられたらしく、裾が切り裂かれ、筋肉質の足が剥き出しで、足の裏を護るだけの薄い草履。
頬には大きな傷があり、鋭い目に更に迫力を訴えている。
突然、背中が話しかけてきた。
「生憎だが、俺は持ち金なんか、持っちゃいねえ。奪う専門だ。腕を切られたくなきゃ、出てけ」
おやおやと思いながら、聞き返してみる。
「腕を賭けるのか」
「腕だけじゃねえ。賭けられるものは、何でもだ。ああ、一度だけ、女を賭けて大敗しちまったから、女だけは賭けねえけど」
「女が哀しむであろうよ。二度と足の間に、おまえを入れない」
「ともかく、金が要る」
短く言って、劉剥は再び瓦礫の路を進んでゆく。香桜も従いて行く。劉剥は尾行など、気にもしていないかのようだった。
「金なら、ある」
繋がった銅銭を掲げて見せると、劉剥はいよいよ瞠目した。
「俺と勝負しないか? 勝ったら、そうだな。一緒に来てもらうか。俺が負けたら、有り金を全部やろう」
劉剥の口角が莫迦にしたように上がる。
「プラス、あんたの命だ。そのくらいじゃねえと、面白くねぇ」
「いいだろう。では、俺が勝てば、あの女を寄越せ」
一瞬、情事の覗き見を追及されるかと思ったが、劉剥は靜かに眼を伏せた。
「別にありゃ、俺の女じゃねえ。后戚は、俺の女だと言うには高級過ぎらぁ。ただ、后戚が俺の女だと自負する以上負けるわけには行かねぇよ」
顔を背けた耳が赤い。この男、天武より剽軽だ。
龍の気が水脈の在処を告げている。官吏の眼を眩ませるための岩場を掘り、作られた賭場への路は長く感じる。
時折、足下を蜥蜴が這って行き、その度に劉剥は手で掴んでは、腰の袋に放り込んでいた。歩く度に腰の袋が、がさがさと動いている。
ひやりとした風が、逃げ水と一緒に迷い込んでいる。
劉剥の腰の袋に蜥蜴が入りきらなくなった頃、一際ぐんと明るい洞窟に辿り着いた。
「よう!」
荒くれ者の間に劉剥は入り込み、駆けつけ一杯とばかりに酒を酌み交わした。
あまりに楽しそうな男たちへの寄贈にと、こっそりと小さな仙酒桃を、樽に放り込んでおく。溶ければ美味い酒ができるはずだ。極度の酔いが廻るが、この者たちは平気で腹を見せて引っ繰り返る。焼き蜥蜴を摘みに、最高の華宴となるに違いない。
一塊になった男たちの目の前に、劉剥は拾った鳥の骨を放り投げ、ばさばさに乱れた髪を縛り直して、香桜を振り返った。
「兄ちゃん、好きな数字は? 骨に数字が刻んであんだろ。合計の数で決まる。簡単だろ。山猿でもできる」
なるほど、骨には数字らしき引っ掻き文字が刻んである。香桜は九を指定した。
「俺は一の揃目(ぞろめ)と行くか! なあ! 俺が勝てば約束通り、舎弟になれ!」
荒くれ者が罵声を浴びせてきて、劉剥は、にやりと笑った。
「文句は俺に勝ってからにしろ! 軟弱野郎が!」
どうやら劉剥は、すっかり賭場の男たちを魅了している。
大股を開いて、どかっと座り込んだ劉剥の目の前で、香桜も片膝をつき、上半身を乗り出させた。
視線がかち合う。同時に声を張り上げた。
「勝負!」
劉剥の手が、素早く二つの鳥の頭蓋骨を椀に放り込む。乾いた音を二度させて、椀を地面に叩きつけた。
砂埃が舞う中で、香桜は低く訊いた。
「後悔はしないか」
椀を持つ香桜の手が、ぴくりと動く。劉剥は細い目をぎょろつかせて、香桜を見返した。
「んな言葉は、知らねぇな」
「天下が取れる。秦を手に入れると言っていただろうよ」
あん? と劉剥の目が香桜に吸い付き向けられる。香桜は泥まみれの劉剥に顔を近づけると、にやりと笑った。
「ありゃ、后戚が泣くから言ったまでだ。本気にすんな」
言いながら、劉剥は椀を上げた。砂混じりの鳥の頭蓋骨には両方一本筋が通っている。一の揃目。劉剥の勝ちだ。
「凄いな……当たりか」
劉剥は、ふん、と不貞不貞しく笑うと、骸骨を手に弾ませて見せた。
「こいつの重さは熟知してる。さあ、金と命を寄越しな!」
――やれやれ。いかさまか。さて困った。命を差し出せとの約束があった。
(皆殺しも辞さないが……殺すには惜しい。穏便に行くとするか)
辺りを素早く見渡して、香桜は酒樽に目を止めた。先程、仙酒桃を放り込んだ酒樽。
有り金を投げてやり、ひょいと親指で酒樽を指して、笑って見せた。
「勝利には酒を酌み交わすのが男たる愉悦よ。俺の命の祝いに、全員で呑め」
酒の言葉に、劉剥が断るはずもない。昼間から酒を食らって、寝入っている男だ。
「それもそうだな……おい! 酒を配れ! いや、俺が取りに行こう」
――仙酒で、しばし酔っ払って寝ろ。殺さずにおくから感謝しろ。
もう劉剥の目は酒樽に注がれている。立ち上がると、さっきの椀になみなみと酒を満たして戻ってきた。
仙酒は輝いた水面の如く透明になる。濁り酒ばかりの劉剥の目には、旨そうに映っているが、呑めば体内で酒精度が上がる。飽きっぽい仙人が刺激を求めて作った悪ふざけの産物だ。むろん、人間など、ひとたまりもない。
「青空の真下じゃねえのが惜しくなるな」
腰の袋から一匹の蜥蜴が顔を出し、逃げようとした。その蜥蜴を足で踏んだ時には、劉剥は見事に引っ繰り返っていた。
香桜は溢れた酒樽から、酒を勢いよく煽いだ。
劉剥の傍に腰を下ろし、懐に仙酒桃を忍ばせてやる。
――いかさまであれ、久々に旨い酒を味わえた礼だ。
劉剥の腰の袋からは大量の蜥蜴が逃げ出し、岩室の隙間に消えて行った。
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